三浦家

父と娘の思い

三浦家文書研究会のHPとこのブログの中で、宇和島藩士三浦義陳が、江戸の宇和島藩邸で奥女中を勤める娘ほのに宛てた手紙を読んできた。そのほとんどを読み終えたつもりだったが、先般、三浦家文書の「御先祖様御自筆抜書写」という記録をめくっていると、ま…

明治4年の戸籍改

三浦義質が東京の息子に宛てた明治4年の手紙を見てきましたが、 三浦家文書には同じ年の戸籍改が残っています。 明治維新と江戸武士1にあった戸籍改とは、まさしくこの資料のことを指します。 戸籍改にはまず三浦家の家禄が50俵であることが記され、 以…

明治維新と江戸武士6

明治4(1871)年11月5日に、 宇和島の三浦義質から東京の肇(徳義)に宛てた手紙を紹介します。 寒さが募りますが、元気に働いているとのこと。 とてもめでたいことです。 こちらも一家揃い元気、親類も無事なのでどうぞ安心してください。 御取締組…

明治維新と江戸武士5

明治4(1871)年9月20日に、 宇和島の三浦義質から東京の肇(徳義)に宛てた手紙を紹介します。 この頃は芝居が来てにぎやかですが、夜分には軽業も来ているので、 延次郎を連れて上原のお兄さまも一緒に9月11日の夜に見物に出かけました。 そう…

明治維新と江戸武士4

明治4(1871)年7月20日に、 宇和島の三浦義質から東京の肇(徳義)に宛てた手紙を紹介します。 かなりの長文で、記されていることも多岐にわたります。 6月22日に出したあなたの手紙は、7月15日に到着しました。 早速見たところまず元気にし…

明治維新と江戸武士3

明治4(1871)年7月5日に、 宇和島の三浦義質から東京の肇(徳義)に宛てた手紙を紹介します。 先月初めの飛脚がまだ到着せず、日々待ちかねているところです。 今年は田畑ともに作物の出来がよく、何よりのことと喜んでいます。 土佐からフランス式…

明治維新と江戸武士2

前回紹介して手紙から15日後、 明治4(1871)年6月20日に宇和島の三浦義質から 東京の肇(徳義)に宛てた手紙を紹介します。 ちなみに、6通残る明治手紙の日付を見ると、 5日と20日に集中していますが、 きっとその前後に飛脚が出るようになっ…

明治3年それとも4年?

「明治維新と江戸武士」というシリーズで、 明治3(1870)年に宇和島藩士三浦家の9代当主義質(よしかた)が、 息子の肇(徳義)に宛てた手紙の紹介を始めました。 これらの手紙は、 「明治三年寒性院様(義質)より在京兵隊ノ職務ノ徳義へノ御手翰」 …

明治維新と江戸武士1

明治4(1871)年に宇和島藩士三浦家の9代当主義質(よしかた)が、 息子の肇(徳義)に宛てた手紙が6通残っています。 また、先に写真のところで一部紹介しましたが、 義質の妻とせ(とし)が、 肇(徳義)に宛てた手紙がやはり6通残っています。 当…

写真を撮られるということ

写真を撮る側のことを書いたので、 今回は撮られる側のことを少し書いてみたい。 写真がまだあまり普及していなかった時代に、 写真を撮られると魂が奪われるという迷信があった ということがよく言われますが、 これはどこまで本当なのでしょう。 先日宇和…

三浦義陳の外出(まとめ)

宇和島藩士三浦義陳が記した 寛延3年4月8日〜12月28日の日記から、 江戸勤番中に外出した回数を拾うと、 先に書いたようにわずか16日を数えるのみである。 少ない外出のなか、義陳は 浅草観音、目黒不動、増上寺、泉岳寺、神田明神、芝神明社 など…

三浦義陳の外出6

寛延3年、江戸暮らしする宇和島藩士三浦義陳の外出について。 今回は10月の2回と11月の1回の合計3回分を紹介。 12月は宇和島藩主伊達村候の婚礼があり忙しかったせいか、 外出は記録されていない。 10月16日 西川弥五郎と同道で神明前に行く。…

三浦義陳の外出5

三浦義陳の外出についてのつづき。 今回は9月の4回の外出のうち後半2回分。 9月19日 非番。 西川屋五郎と一緒に神明社の祭礼で神明前に行く。 神明社で上野弥五郎も合流する。 神明社は祭礼のため大にぎわいで、女相撲を見物してから印籠、根付なども…

三浦義陳の外出4

三浦義陳の外出についてのつづき。 今回は9月の4回の外出のうち前半2回分。 9月7日 非番。 御先弓の与左衛門を召し連れて外出。 恵美須屋に行き、晒二疋、染帷子二つを注文し、中立小立三反購入する。 そのうち晒一疋については、京都に送り染め直しす…

三浦義陳の外出3

今回は義陳の文章が少し長いので、8月22日の外出のみを紹介する。 8月22日 松平薩摩守様(鹿児島藩主島津重年)への使者を命じられる。 昼時過ぎに御屋敷を出る。 薩摩守様からは、来月13日に家督相続祝いとして能を行うにあたり、 先般屋形様(伊達…

三浦義陳の外出2

寛延3年6、7月の義陳の外出を下に抜き書き。 6月16日 渡部源太夫、相原猪左衛門と外出。 浅草観音に参詣。帰りに少し雨に逢う。 帰りに浅草見付の辺りで長男豊八郎の脇差を一腰購入。100疋。 さらに柄束小を4匁5分で購入。 これは横山町二丁目森…

三浦義陳の外出1

勤番武士の外出は規制されていたが、 では実際に外出した際にはどのような行動をとっていたのか。 寛延3年の宇和島藩士三浦義陳の例をざっと紹介する。 今回は4月と5月の外出について。 4月14日 明番。 午前11時頃から外出。 同道した藩士は、井関作…

絵の楽しみ方

子どもの時分、絵草紙や錦画が好きだった内藤鳴雪。 絵には見る以外の楽しみ方があったことも書き記している。 私は絵を見て楽しむ外に、 またその画を模写することが好きだった。 小学校で図画を教える今時と違って、 当時は大人でも大抵はどんな簡単な物の…

おんな子どもの…

三浦家が土産として用いた錦絵や草双紙は、 父が江戸常府の松山藩士であった俳人内藤鳴雪の鳴雪自叙伝 (岩波文庫)にも登場する。 鳴雪のこの記述により、武士の家族のうち どのような層がこれらを喜んで受け入れていたのかが分かる。 私は子供の時一番楽しみ…

帯の土産

お土産にしつこくこだわると、 手紙に出てくる帯にしても、 妻の久美から古いものを江戸紫に染め直すようにオーダーが出ていた模様。 江戸紫は江戸時代に流行した色の一つで、 歌舞伎の「助六」が締めている鉢巻きの色としても知られる。 紫は高貴な身分を表…

三枚雪駄の土産

江戸勤番武士も読んだ草双紙。 ちょうど読みかけていた 中野三敏 江戸文化評判記―雅俗融和の世界 (中公新書)に、 『甲子夜話』の著者として知られる平戸藩主松浦静山も 草双紙を集めていたという記述が見つかった。 部屋住み時代からの趣味らしく、 「此主伊…

草双紙の土産

前回は江戸からの土産として錦絵を取り上げたが、 他にも江戸らしい土産の話しが書かれた手紙が宇和島藩士三浦家文書の中にある。 文政5年10月5日付の江戸詰め中の7代当主義信が、 宇和島で留守宅を守る妻久美に宛てて出した手紙である。 その一部を下…

錦絵の土産

普段、家では朝日新聞をとっているが、 今日新聞受けを開けてみると、間違って日本経済新聞が入っていた。 現在の日本経済への関心が皆無なので、悲しいことに、 折角新聞があっても読むところがほとんどないのだが、 文化面はさすが充実していて読み応えが…

三浦義信の馬術

義信が馬術に優れていたことを物語る資料として、 文政6年2月22日付の宇和島で留守を預かる妻の久美から、 江戸の義信に宛てた手紙がある。 この手紙は正月17日に出された義信の手紙を受け取って書かれたもので、 義信の手紙には御供中に起こった火事…

お供のスキル

前回まで 宇和島藩主伊達藩主村候と佐賀藩鍋嶋家の護姫の結婚前後の 三浦義陳の仕事振りを見てみたが、 この時期の義陳は通常の仕事以外にも、 いろいろな家に使者に出たり、 村候の御供をしたりと、 かなり多忙な日々を過ごしていたことが分かる。 別に江戸…

三浦義陳の江戸暮らし11

寛延3年12月11日のつづき。 宇和島藩主村候は、午前11時頃に御供を連れて、 護姫の兄、佐賀藩主鍋島宗教のもとを訪問する。 騎馬供1人、御供頭1人、御膳番4人、 表方は義陳も含め2人、御駕籠役3人、 それ以外に御歩行衆はいつも通りの人数での外…

三浦義陳の江戸暮らし10

寛延3年12月11日。 この日は幕府老中の御対客日。 宇和島藩主村候は老中を訪ねまわる。 そのため、朝早く午前4時過ぎにはお供する藩士が集まり、 まず館林藩主で幕府老中の松平右近将監(松平武元)を訪問。 午前5時頃には終わる。 この日は村候以外…

三浦義陳の江戸暮らし9

黒岩比左子 『食道楽』の人 村井弦斎 読了。 明治のベストセラー作家で、 現在では忘れられつつあった 村井弦斎の実像がたくさんの資料により見事によみがえっています。 これも弦斎の長女米子がたくさんの資料を管理しつづけ、 それが神奈川県近代文学館と…

三浦義陳の江戸暮らし8

久しぶりに 宇和島藩士三浦家文書より義陳の江戸での仕事ぶりを紹介する。 12月7日、 宇和島藩主伊達村候と佐賀藩鍋嶋家のお姫様護姫の婚礼当日。 夜明けから午前8時頃にかけてだんだんとお客様が集まってきた。 午前6時頃には護姫の御輿は佐賀藩邸を出…

三浦義陳の江戸暮らし7

12月1日には、 奥表合同で御書院において通しの稽古、 つまりは全体リハーサルが行われる予定で、 御小姓頭から触れがあり八ツ時(午後2時)から御殿に参集したが、 突如の来客があったためこの日のリハーサルは中止になっている。 12月2日は奥表合同…