明治3年それとも4年?

明治維新と江戸武士」というシリーズで、
明治3(1870)年に宇和島藩士三浦家の9代当主義質(よしかた)が、
息子の肇(徳義)に宛てた手紙の紹介を始めました。
これらの手紙は、
「明治三年寒性院様(義質)より在京兵隊ノ職務ノ徳義へノ御手翰」
という包紙に入っていたことから、
手紙の年代をこれまで明治3年のものと考えていました。
また、徳義自身が晩年になってまとめた「三浦家歴史」においても、
明治3年の春に君侯の命令により、
兵隊の資格で東京に在勤し、
諸国の兵とともに巡邏の職を勤めたと記されています。


しかし、一連の手紙を読んでいると、
どうもしっくりしないところが出てきました。
例えば、先に紹介した手紙に、
「大蔵卿様(伊達宗城)は支那(中国)にお渡りになる」とありましたが、
伊達宗城が中国に向けて東京を出発するのは、明治4年5月18日。
欽差全権大臣として清国との交渉にあたるためです。
また、別の書簡には、
「県になってからいろいろなことが変わった」と記していますが、
これは明らかに廃藩置県が行われた明治4年7月14日以降の状況を指しています。
そうだとすると、書簡が記されたのは明治4年ということになります。


江戸時代の手紙は通常月日だけが記され、
元号などが記されているのは稀です。
近代の郵便制度が整った後の手紙は消印が捺されるので、
そこから年代を判断することもできますが、
江戸時代の手紙は、内容を読みこんでそこから年代を確定する作業が必要となります。
それだけに面倒で、研究に活用するのが敬遠されやすい所以であります。
今回のように家の歴史をまとめるために、
当事者が整理して年代を付けてくれていると、
かなり楽な訳なわけですが、
勘違いということもありうるので、
やはり自分で内容を吟味して、主体的に年代を確定していく必要があります。


それでは徳義はなぜこのような勘違いを起こしたのでしょうか。
「三浦家歴史」を読むと、先の記述の近くに、
「明治三年廃藩置県ノ改革アリ」と既に間違って記しています。
すなわち廃藩置県を明治3年と思い違いしたため、
それと同年のこととして一連の手紙の年代を間違って整理したものと思われます。
以上のことをふまえて、
先に明治3年とした手紙に関する記述を、すべて4年に訂正しました。