明治維新と江戸武士3

明治4(1871)年7月5日に、
宇和島の三浦義質から東京の肇(徳義)に宛てた手紙を紹介します。


先月初めの飛脚がまだ到着せず、日々待ちかねているところです。
今年は田畑ともに作物の出来がよく、何よりのことと喜んでいます。
土佐からフランス式を教えに来ている者はまだ教授中で、
さてさて長くかかることと思います。
加藤友も昨日髪を切って、すべて切り揃えたという話しを聞きました。


御祖父様(義礼)は変わらることなく、お酒を相変わらず飲んでいます。
おとせはこの間から大分よくなっていたところ、
また少し具合が悪くなってきたようで、熊崎寛哉に治療を頼みました。
寝ていなければならないことはないのですが、
たまに頭痛もありなかなかしつこいようです。
私は元気でこの間も夜芝居に行き、御祖母様も行くというので、
珍しく久しぶりに見に行き、大いに気晴らしになったようです。
延次郎は元気で毎日のように水遊びに行っていますが、
もはや秋の気配がしているので、止めさせました。
それでもいろいろなことを言って、行きたがっています。


あなたの役料が月々入ってくるようになり、
六月分の六百六十六匁六分余を受け取りました。
その中からお金を送るので、これで精霊棚の準備をしてもらったらと思います。
今年はとても暑くこの頃も日射しが強く耐え難いものがありましたが、
昨日の朝夕から少し冷気が入るようになりました。


もし大廻りのようなものが出すことができそうなら、
毎朝打っている火打ちの良さそうなものを一つ送ってください。
非職になると男女の下僕を置いておくことも難しく、
どちらか一人にすべきとは思いますが、御祖父様に手がかかるため下女は辞めさせられません。
かといって、町への使いに自分で行くことなど思いも寄らぬため、
下男を辞めさせるわけにもいきません。
そこで、下男は武田と申し合わせて、一日おきに来させることにしました。
これで不自由はありません。
大蔵卿様(伊達宗城)が東京にお戻りになったら、
その代わりに知事様(伊達宗徳)が御出京になるとのこと。
8月か9月に御出発になるのではないかと思います。


前回の手紙には、刀をもつ際の制限が記されていましたが、
今回の手紙では、
おとせの実家の加藤友一が断髪して、髪を切り揃えたということが記されています。
散髪脱刀令を直前にして、
それを先取りするような動きが既に起こっています。
御祖父様とあるのは、
義質にとって年の離れた兄である義礼のこと。
三浦家8代当主の義礼は元治元(1864)年に第一線を引き、
気楽な隠居暮らしをしています。
年齢は数えで70歳を超えたところ。
毎日お酒を飲むことを楽しみにしている模様。
おとせの具合は相変わらず。
義質は義礼の妻仲と夜の芝居を見に行き、少し気が晴れたようです。
一人元気な延次郎は、
毎日のように水遊びに行っていますが、季節は秋に移ろうとしています。


肇(徳義)が兵隊として東京に行ったため、
その役料が収入として入ってくるようになり、三浦家の経済も一息ついています。
しかし、知行から俸米へと変わったことや、
さらに先のことを考えると、節約に励まなければなりません。
武士身分でいるためには、
交際費や家来の給金など何かとお金がかかります。
義質は収入が減った分をどうするか悩み、家来の整理に目を付けます。
といっても、高齢の義礼を抱えているので下女は減らせず、
やはり武士の矜持として自分で町にお使いに行くわけにもいかず、
武士身分とお金を両天秤にかけて悩みます。
結局のところ、
下男を親戚の武田家と1日交代で来させることで、
なんとか折り合いを付けています。