父と娘の思い

三浦家文書研究会のHPとこのブログの中で、宇和島藩士三浦義陳が、江戸の宇和島藩邸で奥女中を勤める娘ほのに宛てた手紙を読んできた。そのほとんどを読み終えたつもりだったが、先般、三浦家文書の「御先祖様御自筆抜書写」という記録をめくっていると、まだ読んだことがない義陳がほのに宛てた手紙1通を見つかった。手紙は後半部分が保存されていなかったのか、途中までの尻切れトンボになっているが、興味深い内容なので以下に紹介する。手紙中に義陳の長男勝太夫が江戸から戻ったとあるので、安永2(1773)年6月頃の手紙と推察される。

太夫があなたの手紙を持ち帰り、それを繰り返し繰り返し嬉しく読んでいます。この度は倹約ということで、勝太夫が思いがけず他の面々と一緒に宇和島に帰されることになり、江戸を出発してからは海陸を無事に進み、16日昼に宇和島に着船しました。夕方七つ(午後4時)過ぎには上陸、久々対面することができて喜んでいます。勝太夫は旅行の疲れもなく元気にしています。私がどれ程安心したことか、どうぞ察してください。
太夫宇和島に下ってから、あなたが元気に奥女中として働いている様子を聞いていると、まるであなたと対面しているような気持ちで、それだけでも安心しました。あなたは本当なら来年に勝太夫宇和島に下る際に一緒に帰すという藩の御内意でしたが、余儀ないことであなたを江戸に永く留めるという藩の方針が以前に出されてから、私の心底を思いやる手紙をいただき、またこの度も細かく手紙で言ってきたことは承知しました。
今回、あなたが手紙に書いてきたことは、男子と思うような内容、もっともな了見だと思いました。私は子を4人持ちながらも、男子は勝太夫だけ。他はみな娘ばかりのところ、あなたのような勇ましい男子同然の子を持つことができて、とてもうれしく思います。女性でありながら兄よりも先に藩へ奉公いたし、御用にも立っていること、これ以上の本望はありません。心持ちを丈夫に、油断なく奉公を心懸けてください。あなたさへそのように心得るなら、年は取ったものの私は大丈夫です。
江戸と宇和島、遠く隔たってもいても同じ御家中。折々対面することできないだけで、双方が無病息災で手紙で互いの安否を知ることができれば何の気の毒なこともありません。毎回私に自分は親不孝だと書いてきますが、そのようなことはありません。私は次第に年を取り、御用にも耐えられない体になってしまいましたが、勝太夫とあなたは二人とも御用に立つことが本望と思ってください。あなたが江戸への御供になった際に、私の申し聞かせに従っていたらこのようにならなかったのにと思っているから、私の心底をついつい気の毒と思ってしまうのでしょう。
さてまたあなたが言ってきたように、無期限で江戸に留めておくことなど聞いたことはありません。来年は宇和島に帰してくれないにしても、再来年には帰してもらえることでしょう。もし再来年がだめなら、その次なりともお帰しくださることでしょう。もしまた一生お帰しくださらないとしても、それは互いの生き方というもので、あまりあれこれと互いに考えないことです。そのところをよくよくと心得てください。
妹なども互いに懐かしく思い出すものでしょうが、思うようにいかないのが世の中です。江戸にいても宇和島にいてもお互い息災が第一です。命さえあれば逢う時もあります。藩が差し支えている際に急に宇和島に帰ることは願うことはできませんが、きっと一、二年のうちに宇和島にお帰し下さるので、決して私のことを心配しないでください。人は誰も生まれ合わせです。宇和島であなたが縁づいていたとしても、江戸への引越が命じられたらどうしようもなく引越していたでしょう。江戸への引越なら戻せということもできません。そう言い聞かせて、お互いが納得することがまず重要です。
あなたはかねてから信心深く、神様仏様の御陰と気持ちよく働けば、御主様の御慈悲がないということはないでしょう。あなたが言ってきた通りです。私も今からは男子を二人持ったものと心強く思うようにします。男子と思い、御奉公に心懸けてください。御奉公さえ心懸けてくれたら、それが私の心にも叶うことと思うようにしてください。おとえ、おしけ、おかめもあなたのことを懐かしく思い出していますが、よく心得るように申し聞かすようにします。母様も御了見よく、そんなに御苦労とも思っていません。何事もご安心ください。

この手紙の前年、安永元年の義陳の手紙には、参勤交代で江戸滞在中の勝太夫宇和島に戻る際にほのも一緒に帰ることになるだろうという見通しが記されていたが、その願いもむなしく、手紙では勝太夫だけが宇和島に帰ってきたことがわかる。娘思いの義陳だけにさぞかし落胆したことと想像されるが、手紙ではその気持ちをおくびにも見せず、ほのを力強く励ます内容になっている。江戸に残るほのもつらいところ。その気持ちを思うと、義陳は弱音一つ吐けなかったのではなかろうか。

当初義陳はほのが江戸に行くことに反対していたようで、その申し聞かせに従わなかった自分は親不孝者だとほのの手紙には書かれていたようである。しかし、義陳はその思いをしっかりと受けとめて、ほのが兄よりも先に奥女中として宇和島藩に奉公したことを高く評価し、「そもしかやうなるいさましき男子同前之子を持候と存悦申候」と最大限の賛辞を書き加えている。ほのが離縁の後に下した奥女中として江戸に行く決断を無にしたくないという親心が感じられる。

ところで、この二人は同じ家の中で日常的に接していて、それぞれの思いをこんなに率直に語り合うことはあったのだろうか。離ればなれになり手紙を通じて二人がその思いを交換しあうなかで、理解しあえるようになっていく部分は大きいのではなかろうか。離ればなれになることによって、深まっていく思いもあるのである。

現代社会において、父と娘の関係はとても微妙である。お互いの思いを語り合う父と娘はどれくらいいるのであろうか。江戸時代においても、父と娘の関係はつかみにくいものであるが、父と娘が江戸と宇和島に引き裂かれることにより、それぞれの心中が感じ取れる手紙が遺されることになった。その中でも、親子二人の思いが寄り添っているこの手紙は、ほのの5年間の奥女中生活を義陳がしっかり受けとめていて感動的である。この父娘の手紙を読む時間は、私にとっても幸せな一時であった。