草双紙の土産

前回は江戸からの土産として錦絵を取り上げたが、
他にも江戸らしい土産の話しが書かれた手紙が宇和島藩士三浦家文書の中にある。
文政5年10月5日付の江戸詰め中の7代当主義信が、
宇和島で留守宅を守る妻久美に宛てて出した手紙である。
その一部を下に口語訳してみる。


御鰯が帰る時に草双紙を二冊宇和島に持ち帰らせることは簡単なことですが、
今回は渡辺和右衛門の大廻りには、直次郎に遣わす雪駄一足を既に頼んでいます。
肇のものと同様に三枚雪駄で、肇のものよりも少し細い草履です。
田中右仲には、幸三郎と嘉治馬への帯二筋を頼みました。
先の便で紫に染めかえるように送られてきたものですが、
染めなおしを頼んだところ、江戸むらさきにはならず、
黒味がかったようになるという上に、値段も高いので染めかえは中止しました。
そのためそれでは不自由だろうと思い、
今度は右仲に頼み、さらには右仲が和右衛門に頼んでくれ、
二筋で11匁2分かかりました。
あなたも承知のとおり私は他行(外出)も難しく、
それから月末には出役廻りで少しも他行できないため、
右仲に頼んで他行ついでに松坂屋で購入してもらいました。
これは私から和右衛門にお願いしたことではなく、
田中に使いを出して頼んだことです。
そんな具合で大廻りなど頼んだ荷物がとても嵩張るので、
わずかなものでもとても頼みにくく思います。
その上、草双紙については、
私は本好きではありますが、全く見たことがなく、
人の話しを聞くにいろいろな種類があるらしく、
(山東)京伝の作もあれば(式亭)三馬の作もあり、いろいろな作者がいます。
芝居のもの、芸者のもの、陰間野郎のもの、枕草子同様のもの、
色事ばかりのしゃれたものもあり、たわいのないものが多いと聞きます。
あなたがどれを欲しいといっているのかさっぱり分からず、
みんな江戸の流行のものなので、田舎では分からないことも多いと思います。
あなたが望みのものを言って寄こしてくれるなら、
何かのついでに宇和島に送ることにしましょう。
でも、私がいろいろと考えをめぐらすに、
浅野洞庵の家に草双紙がたくさんあるというので、
誰かを借りに遣わしたら宇和島に送らなくて済むと思います。
志賀の隠居の家にも草双紙は数々あると聞きます。
乙右衛門の子どもにでも頼んだら、これも借りられないこともなく、
何遍も読み返すようなものでもないと思います。
直次郎が来たら、三枚雪駄を和右衛門の大廻りに頼んだことを言っておいてください。
きっと喜ぶことでしょう。
幸三郎と嘉治馬には手習いに精を出しているので、
帯を送ったと言い聞かせてください。


この部分は、久美が江戸の義信に草双紙2冊を
土産におねだりしたことへの返事として書かれている。
江戸から宇和島に戻る渡辺和右衛門に、
義信は既に三枚雪駄を1足と帯を二筋頼んでいるので、
草双紙といったこれ以上嵩張るものは頼みにくいと渋っている。
そして、何より義信が気に入らないのが、送るものが草双紙であること。
義信は自分は本好きだけれど、そんなものは見たこともないと主張している。
では義信はどんな本を好んで読んでいたのか。
三浦家文書には安政5年「書籍元簿」という資料があり、
義信の読んでいた本がどんなものか大体分かるが、
詳しくはまた別の機会に記すこととする。
大ざっぱに義信が好んだ本を言うと、
漢書、歴史書兵学書、神道、和歌などで、
そこには久美が読みそうな「やわらかい本」は見当たらない。
では、勤番武士は義信のように草双紙を読まなかったというと、
そんなことは全くないわけで、
その一例として以前に、『鳴雪自叙伝』により勤番武士が貸本屋から借りて、
草双紙を読んでいたことを紹介した。

http://d.hatena.ne.jp/rekisinojyubako/20060111

そして、宇和島藩士の中でも、
浅野洞庵や志賀の隠居の家には草双紙は数々あると、
義信も手紙で記しているので、
武士自身や家族の土産として草双紙が実際に宇和島に持ち込まれていたものと考えられる。
義信は草双紙を江戸のはやりもので、田舎では分からないと書いているが、
逆にそれだからこそ江戸に行くことのない久美が所望したともいえる。
義信の草双紙の拒絶も何のその、
参勤交代で江戸で暮らす勤番武士は否応もなく江戸文化に巻き込まれ、
その一端は地元へと持ち込まれていたのである。
中野三敏氏は江戸と地方の文化レベルの均質化をめぐり、
そのパイフ役を果たしたのが参勤交代の制度であったと指摘されているが、
義信の手紙はまさにそのことを物語っている。