おんな子どもの…

三浦家が土産として用いた錦絵や草双紙は、
父が江戸常府の松山藩士であった俳人内藤鳴雪鳴雪自叙伝 (岩波文庫)にも登場する。
鳴雪のこの記述により、武士の家族のうち
どのような層がこれらを喜んで受け入れていたのかが分かる。


私は子供の時一番楽しみだったのは本を読むことであった。
その頃には絵本がいろいろあって、
年齢に応じて程度が違えてあり、挿画には少しばかりの絵解がしてあった。
桃太郎やカチカチ山は最も小さい子供の見るもの、
それより進んでは軍物語であった。
それには八幡太郎義家や義経や義仲などの一代記があった。
こういう本は子供のある家にはどこにもあり
また土産にしたものであった。
外へ出て絵草紙屋の前を通ると私はきっとせがんだ。
私は玩具よりも絵本が好きなので、殊に沢山持っていた。
それから錦画もその頃盛んに行われたが、
これは私は好きで沢山持ち、就中軍画が好きであった。
菱田の祖父が在番で来ている時は私のうちに同居することもあった。
この祖父は外出するごとにきっと私に錦画を買ってくれた。
だから私は祖父が外出すると楽しんでその帰りを待った。


武士の子どもの読書は絵草紙に始まり、
また錦絵もなかなか子どもに人気があったことが分かる。
三浦家が土産にした錦絵も、あるいは子ども用であろうか。
やがて幼かった子どもも絵草紙を卒業。
その後に辿る読書コースも鳴雪は記している。


祖父は、私が少し大きくなってからは
ほとんどもう錦絵をくれぬようになった。
私はこれをひどく淋しく思っていたが、
祖父は在番が終って藩地に帰る時に、
特に買ってくれたのが右の保元平治物語の十冊揃いである。
それから私は仮名ややさしい漢字がわかるようになって、
盛衰記や保元平治物語を拾い読みした。
これは八つか九つの頃であった。
日本の歴史を知った端緒は実にこの二書であった。
草双紙も好んだが、これは私のうちにはなかった。
隣の間室という家に草双紙を綴じ合わせたのがあったのを、
四つ五つの頃からよく遊びに行って見ることにしていた。
この家も常府であったが、藩地に帰る時に、
私が好きだからというのでその草双紙を私にくれていった。
その後はそこにあったものの
外の草双紙もよその家へ行ってよく借りて読んだ。
草双紙は仮名ばかりだから、大概はひとりで読めた。
私の内では父が古戦記を見せることは奨励したが、
草双紙を見せることは好まなかった。
当時江戸の女たちは皆草双紙を大変に好んだものであったが、
うちの二人の祖母もまた継母も田舎出で、
そういう趣味はなかった。


絵草紙から始まった子どもの読書は、
盛衰記や保元平治物語など軍記物の拾い読み、
さらに平仮名ばかりの草双紙へと発展していく。
軍記物は歴史学習の初歩でもあった。
草双紙は独力で読めるということが鳴雪にとって魅力的だったが、
彼の父親はそれを読ませることを嫌がったとある。
これはどこか久美に対する三浦義信の態度にも通じるところである。
雅の文化に生きる義信や鳴雪の父にとっては、
俗の文化の代表ともいえる草双紙は、どこか下品で低級なものに思えたのかもしれない。
しかし、その草双紙を子どもや江戸の女性が好んで読んでいたことを、
鳴雪は記録している。
そして、参勤交代を通じて地元に草双紙が運び込まれることで、
田舎の女性も草双紙を読む時代はすぐそこに迫っていたのである。