三浦義陳の外出1

勤番武士の外出は規制されていたが、
では実際に外出した際にはどのような行動をとっていたのか。
寛延3年の宇和島藩士三浦義陳の例をざっと紹介する。
今回は4月と5月の外出について。


4月14日
明番。
午前11時頃から外出。
同道した藩士は、井関作十郎、井関十左衛門、久野金左衛門、浅田小左衛門。
まず越後屋へ行き、それから浅草、吉原、神明前、日影町などを見物する。
歯磨を5袋購入。そのうち1袋は六介へ。
午後6時前に御屋敷へ帰る。


このうち、越後屋はいわずと知れた駿河町の大店。
この越後屋の恵美須講に後の10月19日に招かれて、
義陳が御馳走を食べていることは以前記した通り。


4月23日
紀伊守様(伊達村信)、武一郎様(村信二男)に御参府御礼の使者へ出る。
午前9時頃に御屋敷を出て、
使者の後に私用願を治部左衛門殿に出して許可を得ていたので、
すぐに恵美須屋、日影町でも買い物、
愛宕増上寺へ参詣、神明前で昼膳を食べてから、
午後3時頃に御屋敷に戻る。


この日、義陳は、
伊予吉田藩4代藩主伊達村信と
その二男で後の5代藩主村賢となった武一郎のもとに、
御参府御礼の使者に出ている。
ちなみに、吉田藩の上屋敷は南八丁堀にあった。
恵美須屋尾張町にあった呉服店
南八丁堀からは紀伊国橋を渡って、南に少し行ったところ。
鳥居清長が天明〜寛政頃に描いたとされる恵美須屋の図には、
恵美須の絵が染められた暖簾や「呉服物安売/現金無掛値」の看板が見える。
増上寺は芝にある徳川将軍家菩提寺


5月7日
菊賀所左衛門と外出。
我妻弥五左衛門も気晴らしのため同道。
午後2時頃に泉岳寺開帳に行き、
沖の手見晴らしのてんやにて酒を呑む。
それから札の辻脇の浜の手二階座敷に上がり奈良茶飯を食べる。
雑式通りを経て、暮れ前には御屋敷に帰る。


泉岳寺赤穂藩主浅野家の菩提寺であったため
赤穂浪士墓所となり、多くの参詣客を集めた。
沖の手見晴らしは、そのすぐ近くの高台であろうか。
さらに芝の札の辻脇にある海をのぞむ二階座敷にあがり、
大豆、小豆、粟、栗などを茶の煎じ汁で炊き込んだ奈良茶飯を食べている。


5月19日
午後2時頃に外出。
祐天寺の信哲殿の庵へ行き1時間ほど話し、
それから目黒不動、金毘羅と参詣して、
暮れ時前に御屋敷に帰る。


祐天寺は中目黒にある浄土宗寺院。信哲殿は不明。
目黒不動は祐天寺のすぐ近くで、天台宗寺院。
境内の独鈷滝(とっこのたき)を浴びると病気が治癒するとの信仰があった。
庶民の行楽地として親しまれ、江戸名所図会にも描かれている。
金毘羅は目黒の近くだとすると、
白金台にあった讃岐高松藩下屋敷内の式内社を指すと思われる。
毎月10日に公開されたはずだが、
義陳らはなんらかの伝手で中を見ることができたのだろうか。