明治維新と江戸武士5

明治4(1871)年9月20日に、
宇和島の三浦義質から東京の肇(徳義)に宛てた手紙を紹介します。


この頃は芝居が来てにぎやかですが、夜分には軽業も来ているので、
延次郎を連れて上原のお兄さまも一緒に9月11日の夜に見物に出かけました。
そうしたところ、御城山の上あたりで火の手が見え、粥もわくような大騒動。
火の手は佐伯町の方角と聞きました。
だんだん火の勢いが強くなり、家の方角なので留守はさぞ心細いことであろうと思い、
延次郎の手を引き、大勢を押しのけながら急ぎ、ようやく広場までは出ました。
息が切れて思うに任せないまま、それでもさらに走り帰ったところ、
火の手は志賀の家で、風もあまりないと聞きほっとしました。
家内はよほど心配して大うろたえだったそうですが、
既に豊治や忠助ら大人数が来てくれて落ち着いていたので、
今度は潜渕館の方へ御機嫌伺いに出ました。
前様は御白砂で床机に腰かけられておりお元気。
しばらく控えていましたが、火の勢いも静まったので帰宅しました。
帰ってから少し酒を飲み、豊治も来てくれていたので、酒を飲ませました。
また、親類や出入りの者もたくさん見舞いに来てくれました。
本当に珍しく留守をしてしまい大騒動、大混雑でした。


例のフランス式の稽古は、未だに土佐の人間が逗留して教えていますが、
なかなか難しいと見えて時間がかかっています。
県になってからいろいろなことがこれまでと変わり、芝居も夜分まで掛かるようになりました。
夜店も四ツ(午後10時)までであったものが、
いつまででも構わないようになり規則が大いに緩んでいます。
買い物などに私もしばしば行くようになり、大いに気張らしとなっています。
庭の畑なども少しずつやってみたりもしていますが、
疝積(胃腸の痛み)で具合がわるく、十分にやることはできませんでした。
しかし、追々体を鍛えていきたいと思っています。
馬を走らせるようにあわただしく年月を過ごし、ついには枯れ落ちることになるのでしょうが、
帰田ともなれば五十歳余りでは何か手仕事でもしないと糊口に差し支えることになります。
この頃は足袋を縫うことなどもしています。
これまで窮屈な勤めを長くしてきましたので、これから気楽に暮らそうと思っていました。
そのとたん帰田ともなればさしあたり飯米の手段がなくなる訳ですから、
今のうちに田地でも買い求めなければならないのではないかと思っています。
さてさてやっかいなことです。


馬嶋のお兄さまは最近御用が増え、県になってからは大変革ともなり、
御老体の昔人にはすぐには理解できないことも多く御心痛とのことで、
昨19日についに御隠居願を出されました。
現在の情勢では虚弱な者がとても勤まることではないので、
ごもっともなことだと思います。
あなたが帰り次第、私も隠居を願い出ることを何より楽しみにしています。


昨19日には兵隊役名が改まり、大尉が笠原須藤で権少参事が見合わせとなり、
中尉小尉が山内、馬場、樋口などで、大属が見合わせとなったということです。
加藤友一郎は軍曹に命じられ、その外いろいろ役名が変わりましたが、詳しくは聞いていません。
今日のことは御祖母様の御日記にあるとおりで、こちらは変わりありません。


9月11日の夜、
義質は延次郎と上原家に養子に入った兄の直次郎とともに、
軽業見物に出かけます。
すると、お城山の上あたりで火の手があがり、大騒動となります。
方角はまさしく義質の家の方角。
かつて二度にわたり火事で家を失ったことがある三浦家だけに、
義質も心配でたまらなかったことでしょう。
義質は留守の家族のことを思い、延次郎の手をとり駆けに駆けます。
ようやく到着すると、家は無事。
三浦家ゆかりの人々が集まってくれていました。
その後、義質は潜淵館の方に御機嫌うかがいに出かけます。
潜淵館は文久2年に建てられた伊達宗紀の隠居所。
この日の火事は風がなかったことが幸いして、最小限の被害で食い止めることができたようです。


義質は手紙に県になってからの変化を記しています。
芝居が夜遅くまでかかるようになり、夜店の時間制限もなくなり、
新政府の規則がはっきりしないまま、
一時的に旧藩時代に比べて規則が緩んでいるようです。
変わったのは規則だけではありません。
義質の身のまわりの生活も変化のきざしが見えます。
前の手紙では町への使いに自ら行くのは憚られると書いていた義質も、
今回の手紙では買い物にもしばしば行くようになったと記しています。
それだけでなく、足袋も自分で繕っているとのこと。
これからは帰農することもありうるし、
また何でも自分でやらなければならないと覚悟を決めています。
そして、武士の多くは、明治という時代を若い世代に任せようと思い定めたようです。
手紙に登場する馬嶋のお兄さまとは、馬嶋家に養子に入った義質の兄幸三郎のことです。
義質よりも年長の幸三郎は、
県になってもしばらく仕事を続けていましたが、
新しい時代は虚弱な老人には向かないとついに隠居願を出しています。
義質も近いうちにそれに続くつもりのようです。
普通ならそろそろ隠居して余生というところ。
義質は武士に先がないことを見越し、田地を購入しようかどうかと思案をめぐらします。