明治維新と江戸武士2

前回紹介して手紙から15日後、
明治4(1871)年6月20日に宇和島の三浦義質から
東京の肇(徳義)に宛てた手紙を紹介します。
ちなみに、6通残る明治手紙の日付を見ると、
5日と20日に集中していますが、
きっとその前後に飛脚が出るようになっていたのでしょう。


あなたが東京へ到着したという便りが届きません。
こちらからは先月22日に飛脚が出ましたが、
現在はそんなに長くかからずに到着するものと思われます。
こちらではあなたからの手紙を日々待ちかねています。
大暑の時分ですが、寝ずの番もあるとのこと。さぞかし疲れることと思います。
こちらは相変わらず暑気強く、
雨も折々降って作物の出来はこれまでのところ良い方に見えます。


おとせも次第に快方に向かい、とても安心しているところです。
この間は泉屋のお京が来て、血分は医薬などでは簡単に直らないが、
大隆寺隠居の晦巌が血分によい薬を拵えて、
速効性があるそうなので頼みましょうかと言ってくれたので、
頼んで飲み始めたところ、それから次第に良くなり、
眩暈や頭痛などもなくなってきたとのこと。
この上は悪くならないようにと折りにふれて気を付けています。
家来はよく畑仕事に精を出し、茄子や露芋が豊作で、
いろいろ使っても余るほどです。


土佐からフランス式を教えにきて、
役人の方々が修行に出ていますが、とても大変とのこと。
こちらでは修行が終わった者から、
当冬には東京に交代に行くことになるだろうという噂があります。
春山様(伊達宗紀)が八十になられたので、親類で申し合わせて祈祷を行いました。


佩刀については御伺いしたところ、
まずは指図があるまでは軍服を着用した時には一刀をもっても良いことになりました。
ただし、一刀をもつ時にはおよそ一尺七寸〜八寸以上のものにするようにとのこと。
これから先、竪紙による願はすべて半切にしたためるようにして、印は捺さなくても構わない。
届けの書類は、使いを出して提出するのも構わないとのこと。
同等の次男、三男、女子であっても、
熟談の上雇い、随従させても構わないとのこと。
16才以上20才以下の者で、喇叭を修業したいものは、来月二十日まで申し出ること。
あなたが出発してからは拝見物は一度もありません。
俸米も三十俵ぐらいになるなど、いろいろな浮評がありますが、
もしそのようになったら軽卒には御暇が出る者もできるのではないかといわれています。
安心できない世の中になってきました。


暑さが強くなってきて、私の方は歩行(散歩)にも行くことができません。
たまに兄弟の家を訪ねて行くぐらいです。
今年は暑さも早く来てしまったので、来月中頃には冷気が入ってきて、
歩行(散歩)でもしたら躰の養生にもなるのではないかと考えています。


前回の手紙にもあったように、
肇(徳義)が東京に到着したらしいという情報は義質の耳にも入っていましたが、
依然として肇本人からの手紙が到着しません。
おとせの体の具合、フランス式の訓練の模様が、
やはり前回の手紙と同様に記されています。
それ以降が新しい話題。
士族の髪型や帯刀・脱刀を自由とする散髪脱刀令が出されるのは、
明治4年8月9日のことですが、
手紙では既に佩刀のことが話題に上っています。
士族がこれまで通り刀を差して通りを闊歩しずらい状況が生じていたのでしょうか。
とりあえず軍服を着た時には刀をもってもよいとされたものの、
長さなどにも制限が加えられています。
また、50俵にまで減っていた俸米が、
今度は30俵に減るのではないかと風評も流れています。
新しい時代の矢継ぎ早の変化に、
士族が付いていけずとまどっている様子に見受けられます。
その中で何もすることができない義質が最後に記しているのは歩行(散歩)。
そういえば、藤沢周平の『三津清左衛門残日録』でも、
隠居した清左衛門はよく歩いていましたが、
江戸社会で生きてきた義質ができることも、
隠居したように世の中から下りて歩くことしかなかったのかもしれません。