明治維新と江戸武士6

明治4(1871)年11月5日に、
宇和島の三浦義質から東京の肇(徳義)に宛てた手紙を紹介します。


寒さが募りますが、元気に働いているとのこと。
とてもめでたいことです。
こちらも一家揃い元気、親類も無事なのでどうぞ安心してください。
御取締組ができたら、あなたが近々帰県することになるのではないかと思い、
そのことを待っています。
大変革となり、知事もそろそろ決まったのではないかと思いますが、
未だに何の知らせもありませんが、決まったのでしょうか。
適切な人が来ないようなら、人気が動揺する基ともなるので、大事なことと思います。
寿君(伊達宗陳)はじめ御相伴の人々も出発なされ、さびしくなりました。
東京はだんだん華族の方々がお入りになり、
昔の江戸くらいににぎやかになっているのでないかと思います。
こちらはみんな変わりありません。
下女をなくしたので、毎日寒いなかいろいろな仕事をせねばならずたまらないこともあります。
しかし、勤めがないというのはなんとも気楽なこと。
一家の仕事ぐらいはなんともないことで、だんだんと身体ともに壮健になっています。
おとせも最近は体の具合が大分いいようです。
あなたから送ってきた順気散を毎日用いて、すごく効いているようにも思えます。
あなたの孝道のお陰です。
安藤精一も近々こちらに到着するので、くわしくあなたの様子を聞くことを楽しみにしています。


安藤精一に会いこちらの様子を詳しく聞き、
それから多人数で申し合わせて料理屋へ行ったとのこと。
なかには花川戸に行った者もいたところ、あなたはそちらに行くことに不同意だったので、
そのまま帰ったと聞き、安心しました。
遊女はいずれも悪病があり、また道中の飯盛女などなおさら恐いものです。
千住の辺りまで電信機が出来たとのこと。舎人の考えでは無益な様にも思われます。
また、相変わらず火事もしばしばあり、
駒形の火事の時には龍吐水を取りに行き、とても難儀したとのこと。
そんなに働いて大変ですね。
警衛ぐらいの仕事なら良いのに思います。
杉山にも行き平学に会って詳しく話しを聞いたとのこと。
あなたが帰ったらその話しもいろいろと聞きたいと思っています。


成田が帰農願を持っていったところ、
他から帰農願が出ても取り上げられないので、結局提出しなかったようです。
少しなりとも扶持をくださるようならいいのですが。
江戸の兵隊は六七割は脱刀になっているとのこと。
こちらもだんだん脱刀、無刀の者も増えており、私も外を歩く時には小脇差一つです。


延次郎は小学校へ一生懸命行っています。
この先は塾もないので、素読が済んだら進歩する道がないと当惑しています。
かつては加藤貞次郎などへ入塾していましたが止めてしまったので、
今は多くの者が仕方なく栗田賎夫方に弁当を持って毎日行っているそうです。
ここは皇学は知っているものの、漢学は未熟ではないかと思います。
兵隊の勢いはいよいよ盛んで、二百人余りが毎日新しく入り稽古しています。
加藤友一郎もこの間軍曹とかいう役に登用され、権少属は見合わせとなったそうです。
安代静夫は東京で五位の官になり兵隊に取立を命じられたそうです。


寒さが強くなり夜分はとりわけ難儀していることと思います。
温かいものなどを食べて、体に障らぬように用心を第一に心がけてください。
夜に快く寝られないようなら、翌日の気分も優れず風邪もひきやすいので、
とにかく用心を第一に心がけてください。
日々のことは御祖母様の日記を送っているので、大略見舞いまで。


明治4年7月14日に突如命じられた廃藩置県にともない、
宇和島も大変革の波が押し寄せます。
旧藩主伊達宗徳は既に藩知事の職を免じられ、
9月8日には事務を権大参事成田忠順に引き継いでいます。
宇和島では次の為政者がどうなるかが
専らの関心事になっていたことがうかがえます。
旧藩主家では宗徳の長男満寿君宇和島を離れます。
義質には一抹の寂しさを感じていたことでしょう。
変革は外だけではなく、内でも起こっています。
三浦家ではついに下女を廃止し、
身のまわりのことは自分たちが行うようになっています。
8月9日の脱刀令の影響か、東京の6,7割は脱刀し、
宇和島でも無刀で歩く武士も増えていきます。
武士の中には帰農する動きも現れています。
明治維新から数年にして、
信じられないような大きな変化に次々と遭遇します。


また、手紙からは肇(徳義)の東京暮らしの様子も垣間見えます。
それによると、多人数で申し合わせて料理屋に繰り出したとあります。
そして、その後「花川戸」まで行く者もいた模様。
この「花川戸」、普通に読むと浅草の地名を指します。
浅草の街の繁華街の一角を担うところで、履き物の問屋などが多かったところです。
この手紙では「花川戸」が明らかにマイナスイメージで記されていますが、
「花川戸」は遊女がいるような町だったのでしょうか。
あるいは、「花川戸」から連想される有名人
花川戸助六」を思い浮かべてみるとどうでしょうか。
助六市川團十郎お家芸である歌舞伎十八番の中の一つで、
当時の江戸時代の人なら誰もがよく知っている話し。
助六は宝刀「友切丸」を探すため吉原に通っています。
遊客に喧嘩をふっかけては刀を抜かせようという魂胆です。
さらに、助六を情夫にしているのは吉原の花魁の揚巻です。
つまり、「花川戸助六」の舞台はまさしく吉原ということになります。
そこから、「花川戸」に行くとは一種の隠語で、
吉原に行くと解することはできないでしょうか。
そうすると、その後の遊女や道中の飯盛女の記述へとつづく流れも自然に思われます。
三浦家はあまり
江戸あるいは東京でいかがわしい場所に行った記述はのこしていませんが、
藩士のどの程度が吉原などの岡場所に足を向けていたのだろうかと思わせる記述です。