写真を撮られるということ

写真を撮る側のことを書いたので、
今回は撮られる側のことを少し書いてみたい。
写真がまだあまり普及していなかった時代に、
写真を撮られると魂が奪われるという迷信があった
ということがよく言われますが、
これはどこまで本当なのでしょう。
先日宇和島藩士三浦家の古文書を読んでいると、
写真のことが記されていたので、
それを題材に少し考えてみたいと思います。


その古文書は、
明治3年(1870)に三浦家9代当主義質(よしかた)の妻としが、
息子の肇(徳義)に宛てた手紙です。
当時としは宇和島にいて、肇(徳義)は藩命により東京に在勤中で、
宇和島だけではなく諸国の兵とともに、巡羅の職を勤めていました。
後に肇(徳義)はその仕事について、「市内浅草見附及蔵前等ノ警固ニ従事ス」と書き残しています。
この間、としは息子のことを心配してたくさんの手紙を書いていますが、
その中の8月19日付の書簡に写真のことが記されているので、その部分を口語訳してみます。


この間、加藤の家にいった時に、まさ太郎(雅太郎)の姿を写した写真を見せてもらいました。
肇も写真を写して送って欲しいと思います。
まさ太郎の写真は、たつ次郎のもとに送ってきたとのことで、
ちょっと借りて見たところ、藤井や西沢やそれ以外にも全部の五人が写っていました。


加藤の家とはとしの実家で、雅太郎は肇と一緒に東京在勤中。
としは雅太郎が他の4人の藩士と撮った写真を見て、
肇にも写真を撮ることを強く勧めています。
その後の10月4日付のとしの手紙にも再び写真のことが
次のように記されています。


写真を写したものを送ってきましたが、
見れば見るほどよく似ていると思いました。
でもちょっと見、少し老けて見えます。


親思いの肇は早速写真を撮ってとしのもとに送ったことが分かります。
明治3〜5年の東京の有名人番付には有名写真師として、
浅草代地内田九一、池ノ端横山松三郎、浅草金丸源三、浅草広小路三ツ木与一郎、通り三丁目清水東
の名前が見られるそうですが、
肇を撮影した写真師はこの中にいるのでしょうか。
それはさておき、
としは文政3年(1820)頃の生まれで、
明治3年には50歳ぐらいだったと考えられます。
写真をいやがるどころか、むしろ好奇心いっぱいに楽しんでいます。
ここには写真を撮られることを忌避する感覚は見当たりません。
土居サダ女が明治初頭に宇和島で写真館を開く土壌は、
こんなところにも感じられます。