明治維新と江戸武士4

明治4(1871)年7月20日に、
宇和島の三浦義質から東京の肇(徳義)に宛てた手紙を紹介します。
かなりの長文で、記されていることも多岐にわたります。


6月22日に出したあなたの手紙は、7月15日に到着しました。
早速見たところまず元気にしているということ、
また日記も詳しく書いて寄越しており大変安心しました。
月に2回は送ってくるものと思っていましたが、
月に1回のようで手紙が大変待ち遠しく思います。
しかしながら大蔵卿様(伊達宗城)が御帰京されたら、
月に2回になるのではないかと思っています。


こちらは御祖父母様はじめ、私たち夫婦、延次郎もみな元気なので安心してください。
おとせも大分良くなっていましたが、
縫い事や洗濯などの仕事をしたところまたまた調子が悪くなり、
熊崎寛哉に診てもらったところ、大分良くなりとても安心しました。
少し良くなるといろいろと手を出してしまうので、
これからは気長に養生するように言い聞かせました。
あまり心配しないでください。


この頃は、浅草見附あたりに行っているとのこと。
東京で一番繁華な土地なので、さぞかしにぎやかなことと思います。
浅草見附あたりでは事件も多いことでしょう。
また、あなたが詰めている場所が馬の駄場みたいなところで、
しかも狭くて困っているとのこと。
とりわけ暑いなかなので、なおさら困っていることと察します。
しかし、これまであなたも寄宿などで慣れているということなので、
何よりのことと安心しています。
しかし、油断大敵。
それはいろいろなことにいえますが、
特によその場所にいるのでなおさらそのことを片時も忘れないようにしてください。
平日は非番もほとんどなくとても忙しいとのこと。
あなたの住んでいる土地は湿地なので、永くとどまることはあまり良くないので、
せわしく動いていることはあなたにとっても良いことだと思います。     


今の刀が少しに気に入らず、十五両で修復するつもりとのこと。
どうぞ良いようになさってください。
ただ、これから一刀などになれば中刀の方が必要になるのではないでしょうか。
今の刀を修復するのは無益ではないでしょうか。
天下の形勢は日に日に変わり、従前は捨て新規となっているので時代に対応するのも、
「皇粟」を食する者のつとめと思います。
あなたの考えをもってやってください。


出火の時には遠近にかかわらず駆けつけて棒付の働きをして、
平日も捕亡の働きもしているとのこと。
さてさて大変なことです。
士分から兵士へとなったのだから、不相当のことと思いますが、
平民から取り立てられたと思えば良い方です。
わたしなどは非職の士分で恐れ入ることなので、先々には帰農になるかもしれません。
でも、あなたが兵隊をつとめているので、わたしも無勤でも安心していられます。
神田見附あたりから両国柳橋、浅草見附あたりへ詰める巡邏は、
吉原あたりまでも行かなければならないようで、かなりの道のりで大変なことと思います。


世間では乳汁に乏しい夫人が、牛乳なんかを取り寄せていること。
これはとてもよいことと思います。
杉山家の次男が七月十二日に病死してしまいましたが、とても残念なことでした。
これは母親の乳が出なかったので乳母を置いたところ、
その乳母が病気でその乳を飲んでしまったため、子に障り下痢で死んでしまいました。
このような場合にはぜひとも牛乳を使いたいものです。
禽獣伝染病が外国から入り流行していることがこちらでも御布告がありましたが、
いろいろ安心できないことが絶えません。


風聞書附を送ってくれとても慰みになっています。
現在は世間に出ておらず、何も分からなかったので、めずらしいものに思います。
現在は藩の名前もいろいろ変わり、昔の武鑑では分からないところがたくさんあるので、
袖武鑑のようなものがあれば買い求めて欲しいと思います。
こちらは何も変わったことはなく、練兵はただいま休業で、
役人たちばかりが土州人に習っているばかり。
これも冬になるまでは稽古は終わらないだろうとのこと。
毎日少しずつしか教えていないので、とても長引いているそうです。
田畑ともに豊作で、米は一俵一貫三百目以下になり、物価も下がり釣り合いません。
非職で男女を召し使いを置くのは不相当なので、
人足は武田と話し合い、隔日に来るようにさせました。
あなたが帰ってきたら、来春より下男を来させるのは止めようと思っています。


先日は鉄炮の修理なども追々はじめましたが、手入れは大いにいやになりました。
掛け物も絶えず掛け替えていますが、ついつい怠りがちになってしまいます。
書物の虫干しも近々やろうとは思っています。
毎日暇ではありますが、さして働きもせず、庭も暑くて庭仕事もできません。
この間の七月十一日の夜、知事様(伊達宗徳)から来るように言われたので、
参館したところ久々にゆっくりとお酒、お肴、お吸物を拝味し、
わたしたち老人たちにとって大変ありがたいことでした。


戸島浦で★(けものへんに由:不明)が先頃四十疋ほど死んでいたとのこと。
これはリトルペストが流行したものと思われます。
その他へ伝染したという話しは聞きません。人へは伝染しないそうです。


追伸
なお、時節がら用心を心がけてください。
住む所がたびたび代わるようなので、特に加養第一です。
多人数で同宿だと病気などしたら特に難渋するので用心してください。
御祖父様へお手紙をいただいていますが、
御承知のとおり手紙を書くのが難儀でよろしく言ってくれとのことなので、
末筆ながら申しておきます。
それから、大廻りのようなものが出るようなら、
朝夕に打つ大トキ火打を一つ何かのついでに買って欲しいと思います。
吉井の火打か、神明前の木瓜屋のものか。
いずれにしてもよく火の出るものが良いかと思います。


今回の手紙では、
肇(徳義)の仕事のことに筆の多くが割かれています。
その仕事とは、兵隊として浅草見附周辺の治安維持に当たること。
テリトリーは神田見附、両国柳橋、浅草見附から吉原までと広範囲で、
東京の繁華街をすっぽりと覆っています。
出火の時には駆けつけて棒付の働きをして、
平日は警察の働きもしているとのことで、心身ともに休まる暇がないようです。
こうした仕事は本来三浦家のような中級武士のものではなく、
最下層の足軽などがやるようなものだったのかもしれませんが、
義質は士分から兵隊になったのなら格下げでも、
平民から兵隊になったと思えば良い方だと説いています。
また、天下の形勢は日に日に変わるので、
新しい時代に対応するのも「皇粟」を食する者のつとめとも言っています。
義質は自らは古い人間として、新しい世の中から一歩引きながらも、
その時代の本質はちゃんと理解していたことがうかがえます。
これからの世の中で現在の刀は無益ではないかと言っていること、
母乳が出ない女性については牛乳を使うべきとしていることなどは、
義質が新しい時代をしっかり見つめてた証といえそうです。
明治維新という新しい時代に、
江戸武士が頑迷ですっかり取り残されたかのように描かれますが、
果たしてそうなのでしょうか。
義質のような新しい時代を理解していた武士が多かったからこそ、
大きな混乱もなく明治維新を迎えることができたともいえるのではないでしょうか。
義質は東京からの風聞書や維新後の武鑑などを求めるなど、
これからの時代の動きを見極めようとしています。
一歩引いたところから、徳義のこれからの道を指し示すことを自らの使命としていたのでしょう。