松山藩の行列を描いた絵巻

たまにいくつのかの博物館や美術館のHPをネットサーフィンしながら、展覧会に行った気分だけを味わっている。昨日もふと思い立って、秋の展覧会を調べてみると、国立歴史民俗博物館で、「行列にみる近世−武士と異国と祭礼と−」の予告発見。面白そうだなと眺めていると、地元の大名に関する絵巻が紹介されていることに気づく。
http://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/index.html

松山藩参勤交代絵巻」である。この史料、国立歴史民俗博物館所蔵とあるが、展覧会情報に掲載された画像は当然粗くてよく見えない。こういう時に便利なデータベースの館蔵資料データベースを使って検索してみると、やはり情報がありました。絵巻は1巻で、縦13cm、横2025cm。縦が思った以上に短いが、絵も文字もかなり小さいということ?やや疑問をもちつつも解説を読んでみる。

本絵巻は題簽に「松山□□□□」とあること、さらに以下のような理由から、天保期における伊予松山藩久松松平氏の参勤交代の様子を描いた絵巻と見られる。 先ず本巻は表紙裏貼付端書に次のような記事がある。 『御供竹内久六、遠山甚太郎/渡部彦左衛門等総計四百二十九人』 この内、竹内及び遠山は代々松山藩の家老職にあり、『松山市史』第二巻所載「松山藩の家老職家別一覧」から、竹内及び遠山の両人が共に家老職に就いていた時期は次の通りである。『竹内久六 信均 知行2000石 文政4・11・29家老、天保11・4・10辞職、天保14・4・4復職、安政4・8・15辞職、文久1・7・21復職(下略) 遠山甚太郎 景忠 知行1500石 天保14・9・28家老、天保15・10・30辞職、』 以上のことから、両者が家老職にあった時期は天保14年9月28日から同15年10月30日までということになる。このことから本絵巻はこの時期における参勤交代を描いたものと思われる。三人目の渡辺彦左衛門については『松山武鑑』にも登場しないため、詳細は不明である。 絵は彩色で絵師の手によるものと思われ、参勤交代研究にとって貴重な資料である。


題簽が冒頭の「松山」しか読めず、その後の文言が分からないのが残念。しかし、御供の竹内久六、遠山甚太郎が松山藩家老であることから、伊予松山藩と判断したのは妥当である。ただ、三人目の渡辺彦左衛門(最初は渡部とあるが)については『松山武鑑』にも登場しないとあるが、この松山武鑑とは何だろう。伊予史談会双書の『松山役録』に掲載されている「松山武鑑」(嘉永5年)を指すのだろうか。「松山武鑑」を見ると、確かに渡部彦左衞門は見当たらない。しかし、文化12年頃とされる「松山古今役録」を見ると、延享4年に大小姓頭を勤めた人物として渡部彦左衞門が登場する。時代は大きく離れているが、絵巻よりも何代前の人物に当たるのかもしれない。

ところで、松山藩の行列を描いた絵巻、他にもどこかでも見たような…。キオクをたぐると、確か数年前に江戸東京博物館の常設展示で見た気がして、探してみると江戸東京博物館の館蔵品も検索できて、データ取り出せました。
http://digitalmuseum.rekibun.or.jp/edohaku/app/collection/detail?id=0199200377&sr=%8F%BC%8E%52%94%CB
こちらは江戸城に登営する松山藩の行列を描いたもので、縦38.4cm、横859cm。松山藩の参勤交代と江戸城登営を描いた絵巻。何か関連はないものかと思う。ところで、参勤交代と登営の行列ってどう違うんだろう?それぞれの行列を比較してみるのもちょっと面白そう。江戸博のその時のキャプションをメモしたものも出てきたので、下に記しておく。

伊予松山藩久松松平家登営行列図
江戸末期(1842〜1867)
箱書きに「登営行列図」と書かれる。また行列の携行品から、本行列が表題の大名家の行列であることが確認できる。久松松平家江戸城に登城する際の様相が描かれていることになる。大名家の華やかな行列をうかがうことができる。