三浦義陳の江戸暮らし1

寛延2(1749)年12月2日、
宇和島藩士三浦義陳のもとに、
来年春の参勤交代のお供に加わるように命じる触書がもたらされる。
触書は夜の四ツ時(午後十時)に到着、
義陳は直ちに来年の参勤交代を担当する
家老桜田伊勢のもとに承諾することを伝えるために訪れている。
そして、翌年の寛延3年2月19日、
義陳は御物頭三条目五郎左衛門らとともに
藩主伊達村候に先立ち観音丸に乗船し、
3月10日に大坂に着岸している。
大坂滞在中は、
音丸の中で寝起きして大坂見物、
時には住吉や堺あたりまでも足を伸ばしている。
義陳は3月20日に村候が大坂に到着するのを待ち受け、
到着した当日には大坂奉行や船奉行に到着を知らせる使者となっている。
3月23日に大坂を出発し村候のお供をして、
4月8日に麻布にあった宇和島藩江戸屋敷に到着する。
ちなみに、その江戸屋敷のあった場所は、
昨日国立新美術館が華々しくオープンした場所に他ならない。
義陳は到着後二階堂理介の長屋に寄るが、
晩になり与えられた長屋へと移っている。
長屋を同じくするものは、
音丸で同船した井関作十郎と相原猪左衛門。
一つの長屋に三人という少し窮屈な共同生活が始まる。
では、次回以降しばらく、
義陳の大都市江戸における暮らしぶりを、
寛延三庚午四月八日ヨリ極月廿八日迄日記」より紹介する。