奥山弘平の正体2

奥山弘平と伊予とのつながりですが、
伊予の古い人名辞典を繰っていくうちに、
ついに『伊豫の山水と人物と事業』上巻(愛媛県出版会、1930年)の中に、
奥山鳳鳴の名前を発見しました。
以下、長くなりますが、奥山の履歴を最も詳細に記していますので、
そのまま引用します。


奥山鳳鳴
名は操、字は在中、通称を弘平、鳳鳴はその号である。
宇和島藩士奥山氏の第二子で若き時出て不破氏を嗣いだが、
後籍を脱して本姓に復した。
小松藩の近藤篤山に学び、
又大阪に遊んで越智高洲に学んだ。
『一架詩書三尺剣潜然憂世臥丘園、同人若問生涯事、遙指青天笑不答』と慨然、
経世を以て任し、四方に周遊して士気を鼓舞することに務めたが服装は常に木綿一枚で、
極寒の時も重ねたことがなく平然として邊幅を飾らない處に彼の真面目が発揮せられた。
後居を彦根に卜し、医師高橋某の女を娶って、
天保年間宇和島に帰り、国恩に報ぜんとしたが
事志と違ひ復び彦根に赴き更に江戸に遊んだ。
後更に京師に移り医師新宮某の家に客となったが、
会々(たまたま)盛岡藩の老臣が新宮氏に国費の金を借りに来た時、
経国の良器啻(たゞ)に萬金のみでないと鳳鳴を推薦したので
老臣は喜んで鳳鳴を迎えて帰り、藩主は賓師を以て之を遇した。
その経国の手腕は頗る提救するとことがあった。
後藩主に従って江戸に抵(いた)り病の為に歿した。
時に年四十有歳。芝金地院に葬り『鳳鳴奥山先生之墓』と題した。
その著書に四均総、赤子問答、豫備説等がある。
皆時事の急務を論じたものである。
丸之内胃腸科専門医奥山孝康氏は其甥孫に当る。


この情報をもって、
もう一度『家中由緒書』を見ると、
確かに天保2年の由緒書の不破武兵衛の項に、
兄弘平として名前が見えます。
後籍を脱して本姓に復したとありましたが、
『家中由緒書』では不破家を離れたようには記しておらず、
芸州、江戸、仙台、江州大塚村と渡り歩き、
最後は天保10年10月28日に
兼ねて江州大塚村において旗本関播磨守代官、西堀與七郎の役介となっていたが、
江戸において病死という届けが出されています。
二の重さんは近江に住んでいたという情報を寄せてくださいましたが、
『伊豫の山水』には彦根、『家中由緒書』には江州大塚村という
いずれも近江の地名が確かに記されています。


また、京都の医師新宮某とありますが、
これは丹後出身の蘭方医新宮涼庭のことを指します。
盛岡藩の老臣とは、昨日登場した盛岡藩家老横澤兵庫のことでしょう。
新宮涼庭は南部藩に多額の融資を行うとともに、財政改革にも寄与したとされていますが、
新宮涼庭は盛岡藩の財政改革のために
奥山弘平−佐藤信淵盛岡藩に送り込んだものと思われます。
それにしても、不思議なことに『家中由緒書』には盛岡は全く出てきません。
表向きは不破武兵衛の兄として宇和島藩に籍を置きつつも、
その裏で綾部藩、盛岡藩といろいろな藩を渡り歩いているのです。
つまりは、佐藤信淵と連携して全国を渡り歩いた農政技術者、
(二の重さんのコメントに出てくる「農業切者」の方がしっくりきますが)
それが奥山弘平の正体なのではないでしょうか。
こうした特殊技術で渡り歩く存在は、
宇和島藩に雇われた村田蔵六大村益次郎)、三瀬諸淵などの
蘭学者にも通じる部分があります。
今後綾部藩や盛岡藩で奥村が何を行ったのか、
奥山がその著書でどのようなことを記しているのか、など
もう少しその生涯が分かってくると、
幕藩制の枠を超えながら生きる人物として、
もっと注目されるのではないかと思いました。


なお、
だめおしに『愛媛県史』(資料編、学問・宗教)を見てみると、
奥山鳳鳴として掲載されていました。
短い情報ですが、新しい情報として、
寛政5(1793)生まれとあり、
亡くなったのは『家中由緒書』と同じく天保10年となっています。
昭和3〜5年に刊行された『日本経済大典』が参考にあげられていますが、
どのような情報がのせられているのでしょうか。
すっかり忘れられた人物で、
本により情報がかなりバラついています。
各地でさらに情報が発掘されることを期待したいところです。