もう一つの江戸勤番図

江戸東京博物館所蔵の資料に、「久留米藩士江戸勤番長屋絵巻」という資料がある。この資料はかつて江戸勤番を体験した久留米藩士が明治になって当時を懐かしみ、同僚であった元御用絵師に描かせたものとされ、勤番武士の生活が描かれたほとんど唯一の絵画資料として、これまでも多くの本に取り上げられてきた。先日図書館から借りて読んだコンスタンチン・ヴァボリスの日本人と参勤交代においても、この絵巻が詳しく紹介されていた。この江戸博の資料とほぼ同内容のものが、大川市立清力美術館にあることを最近知った。インターネットを検索している時に、たまたま小林法子氏の「大川市立清力美術館の江戸勤番之図」を見つけた。同論文は下記により読むことができる。

http://www.adm.fukuoka-u.ac.jp/fu844/home2/Ronso/Jinbun/L39-4/L3904_1259.pdf#search='江戸勤番之図'

論文の構成は、一、品質・法量、二、銘文、三、絵、四、構成、五、登場人物、六、題材と表現、七、江戸東京博物館久留米藩士江戸勤番長屋絵巻と清力美術館本、となっている。清力美術館本と江戸東京博物館本は内容はほぼ同じで、天保10(1839)年から11年にかけての長屋の様子を描いている。小林氏は、清力美術館本の基本情報をおさえた上で、その描写の特徴を次のように指摘している。

一見するかぎりでは速筆による簡略な描写、賦彩も粗である。しかし、火鉢の炭に点じられた朱、鉄瓶の口や茶釜からたちのぼる湯気、煙管の煙など、細部の描写には細心の注意をはらっており、窓からみえる増上寺の門や、庭先の女性のようすなど、きわめて小さくえがかれた部分の描写も的確である。このようなことから、略筆風にみえる描写こそが撰択された表現方法であったとかんがえられる。


絵巻の面白い仕掛けとして、本紙に貼紙をして一場面を二様に見せる手法が採られている。例えば、勤番長屋でのささやかな酒宴の場面。一人の藩士が明障子の窓際にたたずんでいる。この貼紙になった明障子をめくりあげると、そこには、みおろすように、隣の長屋の庭先が見える。そこには二人の女性が何かやりとりしている。女性がいるこの長屋はおそらく家族と暮らすことができる江戸定府の藩士が住んでいるのだろう。家族を久留米に残してきた勤番の藩士が、それを淋しくのぞいている。貼紙をめくることで、勤番武士の望郷の思いが際立つ仕掛けになっている。こうした貼り重ねの手法は4つの場面に見出されるが、小林氏によると、この手法には一種の遊戯性があり、序文や詞書を書いた人物と絵師とが、二人で楽しみながら構想を練った様子が想像されるとしている。


また、登場人物について、絵巻の詞書や付箋、「弘化三午手鑑」、『久留米人物誌』などによりまとめられている。
戸田熊次郎〜「目付役」「和漢の学ニ通し詩類を能くす」(絵巻付箋)、「御目付」(弘化三午手鑑)、明治15年没、享年78
中島文叔〜俳号「琴凌」(詞書)、「御医師」(弘化三午手鑑)
高原乙次郎〜「明倫堂御目付」(弘化三午手鑑)
高原信太〜俳号「橘雨」(詞書)、「御蔵所御目付」(弘化三午手鑑)
賢斎〜「平木碩斎の弟」「医を業とす当時遊学中なりしとそ」(付箋)
黒岩隆琢〜「医師」(付箋)、「御医師」(弘化三午手鑑)
梯豊太〜「目付役」「書を能くす」(付箋)、「奥祐筆助」(弘化三午手鑑)、橘守部門下の歌人嘉永2年没、享年42
武藤弥兵衛〜「中小姓」(弘化三午手鑑)
狩野勝波〜「御医師」(弘化三午手鑑)、久留米藩御用絵師、明治2年没、享年65
戸田熊次郎の漢詩をはじめ、三人の藩士の句を織り交ぜながら絵巻が展開していくことに小林氏は注目し、次のようにまとめられている。

清力美術館本は、文芸をたのしみとしたひとびとの手すさびの産物である。そして、戸田熊次郎が江戸勤番のくらしぶりや折々の感興をつたえたいとねがったのも、文芸を愛好をともにする故郷のひとびとであったにちがいない。日常の雑然として諸場面をあつめて織りだされた清力美術館本の成立に、文芸はなくてはならない緯糸であったといえよう。その意味では、清力美術館本は当時の筑後文化の一面を示唆する作品である。


題材と表現では、清力美術館本が略筆法の描法であり、英一蝶の風俗描写や狩野勝波が親しんだ俳諧にかかわる絵画の影響が指摘されている。勝波にとって新しい試みであり、御用絵師としてフォーマルな作品でなかったからこそ、こうした試みが可能になったのかもしれない。そして、最後に清力美術館本と江戸東京博物館本の比較が行われている。この部分については重要と考えるので、次回改めて取り上げたい。