武士の家計簿、絵鯛の行方
昨年末、家族で映画「武士の家計簿」を観に行った。武士の話しでありながら人が切られるシーンなどが全くなく、血を見るのが嫌いな臆病者としては安心して見ることができた。地味な映画なので、少ないかなと思ったが、平日なのにそれなりの人が入っていた驚いた。ほとんどがお年寄り。あまり平日も休日も関係がないのかもしれない。映画の原作は、磯田道史氏の武士の家計簿 ―「加賀藩御算用者」の幕末維新 (新潮新書)。新書として発売されたが、売れに売れているようで、かなりの版を重ねているようだ。映画宣伝の帯入りのものもつくられ、これからさらに版を重ねていくことだろう。
映画の主人公は金沢藩士猪山直之。加賀藩百万石の算用方から藩主の書記官である御次執筆へと出世した人物。しかし、仕事の順調さと裏腹に、猪山家の家計は借金まみれで火の車。家族の持ち物を持ち寄り、ほとんどを商人に売り払い、立ち直っていく。自分の息子の袴着の重要な儀式も、鯛を買う費用が出せず、絵に描いた鯛で済ませている。この絵鯛は映画の肝となる重要なエピソードで、ポスターにも使われている。
映画を観てしばらく後に、出張で大阪に赴いた。仕事の合間、折角の都会ということで大型書店に寄ると、石崎健治氏による猪山直之日記―加賀藩御算用者 (時鐘舎新書)という本が置かれていた。映画の脚本みたいなものかと思って早速買って読んでみると、なんと猪山直之が実際に書いた詳細な日記を用いた研究であった。猪山家の史料はどうも分割して東京の古書店へ売られたようで、そのうちの家計簿を購入して研究したのが磯田氏、日記を購入して研究したのが石崎氏ということになる。
どちらの研究もに面白いのだが、石崎氏がややぼかして書いているのが、映画の重要なエピソード、絵鯛は果たして本当かということ。絵鯛が家計簿に登場するのは、直之の長女お熊の髪置祝い。髪置とは数えで二歳になった子どもの長寿と健康を祝う儀式のこと。その儀式を記録した家計簿に「絵鯛」の文字があり、家計再建に取り組む猪山家の状況から、磯田氏は慎ましくも絵に描いた鯛を祝いの料理に出して、儀式を執り行ったと解釈している。一方、石崎氏によると、同じ日の日記に記された献立には、「小鯛こんにゃくにふたし」はあるが、絵鯛の文字は見出せない。そして、「絵鯛」の部分は「膾鰤」が当てはまりそうとのこと。
確かに絵と膾のくずしは似ている。それにしても、何かにつけて几帳面なのに、直之の家計簿と日記の記載が異なるのはなぜだろう。また、石崎氏は、日記からこの前後の猪山家の宴会を調べてみても、家計が苦しい割には結構な品数が出されており、この時だけ絵に描いた鯛が出される必然性はないとの指摘もされている。映画化により多くの人が知るところとなった、絵鯛のエピソードには再検討する余地が残されそうだ。
家計簿を細かく分析して、武士の知られざる借金まみれの生活、実家との絆が強く、自らのサイフ(資産)をもつ武士の女性像、明治維新後の加賀藩士の勝ち組と負け組などを詳細に明らかにした磯田氏の研究は、江戸武士を研究する上で重要な視点をいくつも提示している。ただ、家計簿がメインであるため、そこから得られるデータをどう読み取るのかという点では不安定な部分がありうる。日記と家計簿との対話により、武士の生活がより深いレベルで解明されていくことを期待したい。