流転する子規遺墨

まつばらとうる 隣の墓 を読む。

隣の墓―子規没後の根岸・子規庵変遷史

隣の墓―子規没後の根岸・子規庵変遷史

正岡子規没後の東京根岸の子規庵の変遷を追ったもの。
まずは、子規の妹律が庵主であった時代。律の後半生は兄を供養しながらわびしく暮らしたイメージをもつ人が多いが、実際には共立女子職業学校で教員として裁縫を教えていたという。そして、子規庵敷地内には子規庵保存会事務所もあり、子規の門弟寒川鼠骨が住んでいた。昭和16年に律死去。昭和20年4月13日の空襲による子規庵炎上。戦後の子規庵復興のためという名目で、鼠骨は管理していた子規遺墨を秘かに古書店に販売、遺墨の散逸が進む。その後、そのことをめぐり、正岡家当主と鼠骨の間に裁判が起こる。主を亡くした後の子規庵のあまりにも複雑な歴史的変遷が詳細に記されている。


この本により、もともと子規庵にあった子規遺墨がどのように散逸し、それぞれがどこに収まっているのかが大まかにつかめる。最初は大正時代に子規庵保存の寄付金の募集時に10円以上の寄付者に子規直筆の俳句分類の原稿1枚が贈呈されている。戦後になり、鼠骨が秘かに上野松坂屋に古書部を創設した八木敏夫を通じての子規遺墨の売り立てが進む。これは昭和22から23年にかけてのことで、「七草集」(百四枚の子規の直筆原稿に漱石が朱筆を入れたもの)、「和光帖」、「漱石の子規宛書簡」、「俳書年表」などが流出している。これらの多くは天理教の真柱中山善三郎が入手、現在天理図書館綿屋文庫に収められているという。昭和24年8月には、鼠骨により子規庵にあった2千点余りの子規蔵書が法政大学図書館に10万円で有償寄贈されている。そして、子規遺墨の流出に気づいた正岡家当主忠三郎が昭和25年1月に子規庵に残っていた遺墨を仮押さえ。裁判の後にこれら遺墨は国会図書館に収められている。
こうした顛末は、研究者にとっては著名な事件なのだろうが、後味の悪い話しだけに一般にはあまり知られていないことのように思う。


なお、気になることとして、本書には子規の「なじみ集」についても記されている。「なじみ集」は、講談社『子規全集』編纂の頃、編集長松井薫が監修委員にやまひろしに宛てた手紙に登場する。そこには古書修理をしながら文芸畑で名を残した池山浩山人から聞いた話しを松井が書き記している。その部分を引用すると、以下のとおり。

浩山人は(柴田)宵曲邸で子規の俳句革新運動で重要な資料『なじみ集』百枚を見せてもらったという。「この重要資料は学界では誰も見ていないものです」と松井はカッコ書きで記している。和田茂樹も同道したとあるので彼ら研究者たちがその後調査されているのだろうが、筆者はいまだ眼にしてない。確かに宵曲日録、昭和二十二年八月十五日に「六時頃寒川(鼠骨)先生の許に到る。帰来『なしみ集』を写し了る」「八月十八日五時頃より寒川先生の許に到る。『なしみ集』写本なりたれはなり」とある。こちらは濁点がなく「なしみ」ではある。鼠骨も全集に載せていない遺稿百枚とあれば気にもなり、写しをとった上で売却を図ったのだろうか。(正岡)忠三郎の仮処分申請・訴訟時の全物件リストには見られない。


この「なじみ集」とは昨年の明治古典会の入札会に出て、後に松山市の子規記念博物館が購入したあの「なじみ集」であろうか。
明治古典会出品時の記録は以下のとおり
http://www.meijikotenkai.com/2009/detail.php?book_id=10370
松山市が購入時の記事は以下のとおり
http://kyoto-np.jp/article.php?mid=P2009112600096&genre=M1&area=Z10
枚数があまりに違うのが気になるが…
同じものだとすると、戦後すぐに鼠骨により売られ地下にもぐった「なじみ集」は、60年近くの歳月をへて再び現れたことになる。
それにしても3990万円は破格の値段。
昭和20年代に散逸した子規遺墨の正確なリストはないようなので、今後もこうした大きな発見はあるのだろうか。