下級武士の次男、三男の行方

加藤淳子「下級武士の米日記」読了。

下級武士の米日記?桑名・柏崎の仕事と暮らし (平凡社新書)

下級武士の米日記?桑名・柏崎の仕事と暮らし (平凡社新書)

伊勢桑名藩は、遠く離れた越後柏崎に飛び地をもっていた。そのため、桑名と柏崎に離れて暮らした武士の親子がいた。父親の渡部平大夫は桑名で米蔵の出納係、息子(養子)の渡部勝之助は妻子を連れて柏崎に赴任、年貢の取り立て係をしている。二人とも江戸武士としては9石3人扶持程度の下級武士ということになる。全国270余りの藩のどこにでもいたようなありふれた武士に過ぎない。ただ、他の忘れられた武士と違い、この二人の名前が後世に伝わっているのは、離ればなれの二人が詳細な日記を交換していたから。二人の日記は、「桑名日記」「柏崎日記」という名で、幕末の第一級史料として多くの研究者に知られる所となっている。

著書の加藤淳子氏はこの第一級史料の「桑名日記」「柏崎日記」を駆使しながら、下級武士の暮らしをリアルに描き出している。その重要なテーマはお米。二人ともお米にまつわる仕事についているので、日記を通じてお互いの仕事内容の情報交換に励んでいる。ただし、そういう役職にあった二人だけがお米に関心を寄せていたわけではない。当時の武士はサラリーをお金以外にお米でも支給されていたので、二人に限らずその年その年の米の作柄や米価の動向に強い関心を寄せていたはず。

加藤氏によると、天保10(1839)年に桑名藩では財政危機があった模様。天保の大飢饉の影響と思われる。藩士へのサラリーは通常、3月と7月と12月の年3回、米と現金で支給されていたが、この年には現金支給が遅れ始める。そして、ついに10月には人別扶持制となり、12月の支給はなしとなる。人別扶持制とは、武士の石高に関係なく、大人が一人1日5合、老人と子どもはその半分といったように、最低の食べる分だけが保障されるといったもの。おそらくこの措置がとられたのは、財政に逼迫した藩が商人への米の売却を優先し、サラリーとして渡すだけの米が確保できなくなったためと思われる。加藤氏は人数扶持制以後の武士の生活を次のように記している。

柏崎では人数扶持以後は、朝新たな飯を炊かず、昨日の冷や飯の茶漬けで済ますとか、桑名では出勤で弁当の要る日だけ、朝に飯を炊き、そうでない日は粥にしている記事もあった。一方、極めて薄給で子だくさんの者には、人別扶持が最低限の食料の保障となっているという記事もあった。この時期、藩士たちには、米を売る余裕などなかったのである。


人別扶持は天保13年9月にようやく終わるが、その後も減給・遅配は続いているようである。そうしたなかであっても、冠婚葬祭、任地への出発や帰任、出張などがあると、親戚同僚を招いて宴会を催さなければならなかった。特にわずかな武士で飛び地を管理している柏崎では、関係が濃密でかなりの頻度で招いたり招かれたりを繰り返していたようである。貧しい日常生活とハデな宴会、このちぐはぐさが江戸武士の生活の特徴といえそうで、こうした武士身分として体裁を整えるための費用がかさんでいたことは、磯田道史が「武士の家計簿」で指摘していたことに相通じる。加藤氏の「宴会やつれ」という言葉も言い得て妙である。

私がこの本の中で特に気になったのは、柏崎の渡部勝之助が水野忠邦による天保の改革の影響で江戸に出張している場面。その中で勝之助が、江戸で喜万太と秀助という二人の弟に再会していることである。そのうち、喜万太は筋違見附(現神田万世橋の付近)の旗本戸田家の屋敷の中で、「四、五人入れ込みの(使用人の部屋)」に暮らしている。また、秀助の方は、小川町にある旗本「山中壱岐様」の長屋に妻と一緒に住み、500石の旗本の若殿の登城のお供、御用書役、知行取箇の計算等をつとめて、六両二人扶持の給与を得ている。本では全く取り上げられていないが、養子に入った渡部勝之助の生家はどのような家で、なぜ二人の弟は江戸で武家奉公人のようなことをしているのだろうか。

各藩の下級武士のうち、長男は家督を相続するだろうが、それでは次男、三男はどのように生きていくのかという問題がある。おそらく勝之助のように同じ藩の中の下級武士の養子に入るというのも選択肢の一つであろうが、その中で行き場が見つからない場合、江戸に出るという選択肢もあったのであろうか。江戸は大名から旗本まで揃った武士の都市であり、武家社会に通じている武家奉公人の需要は極めて高いと考えられる。勝之助の弟の事例は、日本全国の藩で行き場を失った下級武士の次男、三男の多くが江戸に入り込み、武家奉公人として暮らしていたことを示唆しているのではなかろうか。「桑名日記」「柏崎日記」を読み込むと、江戸の武士について、まだまだいろいろなことが分かってきそうである。