文化の伝播者としての旅人

石川英輔 泉光院江戸旅日記 山伏が見た江戸期諸民のくらし 読了。

大江戸泉光院旅日記 (講談社文庫)

大江戸泉光院旅日記 (講談社文庫)

日向佐土原の修験野田泉光院成亮が、文化9(1812)年9月3日の出発から、文政元(1818)年11月6日に帰着するまでの、6年2カ月にわたる日本回国の旅を綴った旅日記、「日本九峰修行日記」をもとに、江戸時代の旅の様相、泉光院が見た庶民のくらしを紹介している。旅日記のタイトルの九峰とは、英彦山(福岡県)・石鎚山愛媛県)・箕面山大阪府)・金剛山大阪府奈良県)・大峰山奈良県)・熊野山(和歌山県)・富士山(静岡県山梨県)・羽黒山山形県)・湯殿山山形県)のこと。このうち、石鎚山だけは他日を期して登拝できていないが、八峰をあげるだけでも泉光院の旅のスケールの大きさが感じられる。

旅は毎日のようにじりじりと進んでいく。単調なようでもあるが、読みなれてくると、このゆったりと進むリズムが、現代のあわただしい旅に比べると心地よくなる。泉光院自身、藩から50石を給され、佐土原藩主の代参として大峰に入峰するような山伏で、山伏としての素養もあり、漢籍俳諧にも通じ、弓なども巧みな文武両道の人物。旅の先々では、これらの能力を見込まれて、長期滞在することもしばしば。そのお供の平四郎も、理屈好きの面白い人物。泉光院と理屈で渡り合い、たまにはへそを曲げて泉光院と別の宿を取ることも。それでも二人の名コンビで旅は続く。

旅のスケールの大きさにも驚くが、日本全国、旅人を無料で泊めるシステムが行き渡っていたことが最も大きな驚き。二人は野宿のピンチはありながらも、その土地土地の善根宿で泊まり、托鉢をしながら少しずつ進む。江戸時代の安全な旅のシステムがあったことがうかがえる。泉光院が来ると村人が集まり、その旅の話しを聞くこともあった。泉光院も宮本常一が言う世間師のような存在で、恐らく旅から旅へと文化を伝えて歩く側面もあったのだろう。泉光院の日記を見ても、日本回匡をはじめいろいろな旅をしている人物が多く出てくる。旅人と村人の間ではインターネットによらない、生身の人間による情報のやりとりがあり、旅人を通じて村が外に開かれていた側面もあるだろう。旅の途中で興味深い伊予の人物も登場。このことは余裕があれば別に少し書いてみたい。