江戸社会のタテマエとホンネ

妻鹿淳子 武家に嫁いだ女性の手紙 読了。

武家に嫁いだ女性の手紙: 貧乏旗本の江戸暮らし

武家に嫁いだ女性の手紙: 貧乏旗本の江戸暮らし

美作国勝南郡岡村(現岡山県勝田郡勝央町岡)の旧家で、筆者は女性の手により記された手紙を発見する。その手紙は、江戸の旗本に嫁いだ女性が美作の実家に書き送ったものであった。女性の名前は万喜。万喜は禄高200俵、大番勤務の旗本伊東要人と結婚して、江戸に暮らしている。

万喜の実家はこの地方の有力な家で、父親の小林令助は在村医。杉田玄白の門人として知られ、後に出石藩医になっている。令助の兄耕左衞門は生家を出て、備中倉敷代官、野村彦右衛門に仕えて武士身分に上昇していく。代官が在地を管理するには、敏腕な下級官僚が必要であり、地元採用された耕左衞門は代官所手代としての優秀さを買われ、ついには幕臣に取り立てられ、江戸の白山に移住、禄高150石で日光普請役を勤めるにまで至っている。こうした代官のもと働く下級官僚について取り上げた著書として、以前に紹介した高橋章則の江戸の転勤族―代官所手代の世界 (平凡社選書)がある。そこに登場する二人の代官所手代のうち、菊田泰三の父親も幕府の代官所があった桑折現地採用され、やがて江戸を含む他地域の手代などを経て元締手代となり、譜代の幕臣となっている。上層農民と下級武士との垣根は、私たちが考える以上に低かったといわざるをえない。

万喜は耕左衞門の養女となるため、故郷を離れて遠い江戸に移り住む。そして、耕左衞門は万喜の婿として、甲府勤番同心杉浦七郎右衛門の息子為作を養子として迎えている。為作と万喜の間には一男一女が生まれているが、為作は文政6(1823)年、万喜が27歳の時に亡くなっている。その後、万喜は天保元(1830)年頃、伊東要人と再婚する。夫の要人は同じ大番の土屋家からの伊東家に養子入り、万喜と結婚しているが、実際には耕左衞門が伊東家の株を買い、要人を養子として迎え入れたのではないかと筆者は推測している。万喜自身も大番の伊東家に入るにあたり、別の大番与力の養女になり、その上で伊東家に再嫁している。これも家格を合わせるための操作といえよう。江戸時代、士農工商の厳しい身分制があったことが強調されてきたが、それは江戸社会のタテマエであり、内実お金により幕臣の株を買い身分を上昇させることも可能だったわけである。前の夫為作と万喜の間に生まれた長男精五郎も、譜代幕臣の渡辺家の子どもとその出自を偽ることで、譜代席の御家人山室家に養子入りしている。家格を上げるために、より上層の家の子どもと詐称することを「入れ子」というそうだが、実際には精五郎も「入れ子」により家格を上昇させ、山室家の株を購入して幕臣になっているのである。養子、養女、入れ子など様々な手段でタテマエの部分を整えることで、庶民が幕臣に転身することも充分ありえたわけである。

美作から江戸に行き、幕臣の妻となった万喜。あまりの環境の変化のとまどいから、万喜は折にふれて自分の心情を書き綴った手紙を実家に書き送っている。小林家に残る万喜の手紙のは22通。借金地獄だった旗本の暮らしぶり、夫婦関係、子どもの教育や縁談など、筆者は旗本に嫁いだ女性の身のまわりにあったことを丹念に記している。一番の読みどころなので、具体的には本書に当たられたい。

なお、本書は旗本夫人の手紙を素材としているが、旗本夫人の日記を素材とした本として、深沢秋男の旗本夫人が見た江戸のたそがれ―井関隆子のエスプリ日記 (文春新書 606)がある。女性の視点から見えてくる江戸社会は、変なフィルターがかかってないせいか、なんとも面白い。