小津映画と成瀬映画

昭和20〜30年代の映画のことを書いた本を読むのは好きでいろいろ読んできたが、映画そのものを観たことはほとんどなかった。地方に住んでいると地元で古い映画が上映されることなどほとんどないし、テレビも地上波では新しい映画ばっかり。しょうがないので、本を読むことでなんとなく映画を観ているつもりになっていた。

ところが、2カ月ばかり前から、我が家でもようやくBSを観ることができるようになった。そして、ちょうどそのタイミングで、BSプレミアムで「山田洋次監督が選んだ日本の名作100本」 が始まった。忙しくてリアルタイムで観ることはできないが、録りだめて暇な時にちびちび観るようにしている。それが今の一番幸せな時間だったりして。

現在までに観終わったのは、小津安二郎監督の『東京物語』と成瀬巳喜男監督の『めし』。この二つの映画にはいずれも原節子が出ているが、この二つの映画を見終えた後に読んでいた中野翠小津ごのみ (ちくま文庫)に、偶然にも「小津と成瀬の原節子」の一節があった。小津映画と成瀬映画では、原節子の描かれ方が随分違うことに注目して記されている。

小津映画での原節子がハイミスか未亡人として描かれるのに対して、成瀬映画では夢破れ、生活に疲れ、日常に倦んだ主婦として出てくる。成瀬は生活臭ぷんぷんの空間で、女ゆえのネガティブな感情のさざなみをさりげなく掬いとっていく。そのあたりが女性が共感できる映画になっている。しかし、それが男から見るとどうかということを、著者はある歌人の文章を紹介している。

昭和25年、『めし』を見て私は、成瀬巳喜男を許せない!と思った。こともあろうに、わが原節子嬢、否、節子姫に、こんな汚れ役をさせるなんて、イコノクラスム(偶像破壊)も度が過ぎる極みだと、映画館のくらやみで地団駄を踏んだ。本当に丑の刻参りをして、呪い殺したいくらい腹が立ったのである。


丑の刻参りって、ちょっと時代を感じる。それに生活に疲れた主婦が汚れ役というのも…。一方、著者は小津映画をカメラが台所にずけずけ入っていかないキレイゴトの映画としている。ただ、ダークサイドにばかり真実がひそんでいるのではなく、キレイゴトの中に真実を描こうとしたのが、小津映画と評価している。キレイゴトの中で成立する映画を撮るのは、かなり難しいんじゃないかと素人的には思う。映画観てから読んだので、著者が言う二人の監督の映画の違いが納得できた。それにしても、映画観ていると、俳優よりも背景に映る東京や大阪の街ばかりに目が。CGでつくりだした昭和の街と違うリアルさ。