際物としての雛人形

岩淵令治「江戸の雛市−「際物」を見る・売る・買う−」(『和宮ゆかりの雛かざり』国立歴史民俗博物館、2011年)を読了。

現在、桃の節句が近づくと、各地でおひなさま絡みのイベントがにぎやかに行われている。この季節に雛人形を展示する博物館もかなり増えたように思うが、そこでは雛人形そのものの解説はあっても、それが江戸時代にどのように売られていたかについての解説はほとんどない。著者はこれまでの江戸研究の中で博捜してきた史料を駆使して、江戸で雛人形が売られていた場に迫っている。

雛人形が売られていた場は、庄内藩の勤番武士の日記にも「十軒店雛見物ス、大造也」と出てくるという。十軒店は日本橋から北にのびるメインストリート「日本橋通り」に面した町。勤番武士はその雛市の規模に驚いている。雛市は十軒店以外に尾張町・浅草茅町・池之端仲町、麹町、駒込に立っていたそうである。また、『狂歌江都名所図会』の挿絵には、4年に1回のオランダ人江戸参府の宿である長崎屋と十軒店の雛市がセットに描かれており、江戸の名物になっていたことも読み解いている。

雛市の商人について。まず『江戸買物独案内』(文政7年刊)には18軒が記載されている。そのほとんどは、吉野屋治郎兵衛(現株式会社吉徳)、吉野屋久兵衛(現株式会社久月)、牡丹唐草模様の精巧な雛道具で知られた七澤屋仙助など当時の有名店。それ以外に路上の出小屋で雛人形を販売するたくさんの店があったらしい。雛人形のような季節商品は際物(きわもの)とされ、それを小売する商人は際物売、際物師といわれた。今でも際物ってよく言うが、その言葉の意味はこれを読むまではあまり考えてみたこともなかった。

出小屋の際物売は雛人形だけを扱っていたわけでなく、新春の凧、正月二日の宝船、七日のなずな、三月の雛物、五月の端午物、七夕の生竹…といったように季節によって売る物を次々に変えていく。雛の商いは魚市場と同様に正札がなく、売り手と買い手が丁々発止と値段交渉して盛り上がっていたらしい。そうした賑やかな雑踏そのものが娯楽の場であったのだろう。近代になり、雛人形は正札付きの百貨店で販売されるようになる。そうなると、かけひきの声が飛び交っていたかつての雛市の様子は忘れされていったのであろう。

北斎の『画本 東都遊』の挿図には、雛市が描かれているが、著者は店の階段の登り下りする女性に注目している。どうも二階には御制禁の雛人形が売られていたらしい。奢侈禁止令などで寸法制限されたとしても、抜け穴が。そんなところも江戸社会らしい。一般庶民が雛人形を買う場面が、絵画資料と文献をうまく組み合わせることで、くっきり見えてきた。

最後に東京メトロ三越前駅の地下コンコースに設置された熈代勝覧の複製から1枚。

出小屋の様子、江戸の雛市のにぎわいが見事に伝わってくる。