『東京パック』の編集者

高島真 追跡『東京パック』 を読了。
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明治38年に北沢楽天が創刊した『東京パック』は有名であるが、楽天が辞めた後にも第二次、第三次、第四次と昭和16年まで発行が続けられていた。本書はそのうちの大正期の第三次、昭和初期の第四次の編集発行人をつとめた下田憲一郎を追跡したもの。

著者の父親は藁田三次郎というペンネームで、第四次に風刺漫画を描いていた。父親が使っていた家の押入には東京パックが積まれていたが、戦時色が濃くなるなかいつの間にか押入から東京パックが消え失せる。そのキオクをプロローグとして下田憲一郎への追跡が始まる。

当初下田の出身地については、秋田県という情報しかなかった。地元の新聞に情報提供を求める記事が掲載されたことをきっかけに、その生い立ちが少しずつわかり始める。下田は明治22(1889)年、秋田県横手市で酒造りを営む富裕な下田家に生まれたが、家が没落。明治37年頃から横手の大沢鮮進堂書店、明治43には開業した東江堂書店で働き、多くの書籍や雑誌を目にすることで、後の『東京パック』の編集発行人としての下地となる知識を手に入れていったものと思われる。奥羽線の横手と湯沢がつながり、東北地方の日本海側を縦貫する鉄道として全通したのが明治38年。横手にも貨物に乗って、多くの書籍や雑誌がもたらされるようになった時代である。東江堂書店時代に、下田が手がけたとされる宣伝の文章が遺されている。

●図書雑誌は下記休暇・避暑・旅行・銷夏の好伴侶なり、又中元の御進物用として高尚優雅なる最適品なり
●今や中央出版界は競て是等の需要を満てんとしつつあり、弊店は続出する新刊を多数蒐集致置候間御覧願上候
●図書切手御便利の為御進物用として美麗に調進可仕候、品切品は御注文に依り最も迅速に御取寄可申候
横手市内の御注文は多少遠近に不拘配達可仕候、郡部読書家諸賢には懇切を旨とし迅速便利に取扱可申候、多数御纏め御注文の節は特別割引可仕候
●弊店は図書雑誌のみならず運動用具文房具等も有之候

明治末期、横手のような地方都市にも書物や雑誌を日常的に読む知識階層が育ちつつあったことがうかがえる。しかし、残念ながら下田が様々な営業戦略を練った東江堂書店はわずかな期間で閉店に追い込まれる。下田は故郷を離れて上京、大正8年からの第三次の『東京パック』の発行に関わっていく。『東京パック』は横手で新聞や雑誌を多く読むことで培った下田の社会認識と、平福百穂・在田稠・藁田三次郎・大田耕史らの画家・漫画家に支えられながら、太平洋戦争に突入するぎりぎりの年まで刊行が続けられている。『東京パック』は安寧秩序を乱すという当局の一方的な見解により何度も発禁となるなど、下田の編集者人生は茨の道であった。『東京パック』の刊行費用として借りたお金が返せないという下田の詫び状の文面が胸を打つ。

最後に、昭和14年の『東京パック』の「新春銃後風景号」から、当時の「国民精神総動員」を茶化した下田の文章を引用する。

国民精神総動員によきシンニューをかけようとする国民組織の再編成。

まだマ新しいハイヒールを蹴飛ばして、洋装に高価な桐の下駄でノシ歩く、銀座八丁の愛国女性風景。

モンペが愛国主義の象徴だとすると、それが防寒服であることの事実から云って、雪国の冬は愛国主義で、春になれば非愛国忠義となるといふリクツだ。

議会。おゝ生きてゐてくれたか。

下田は太平洋戦争の結末を見ることもなく、昭和18年に食べたカニの毒により突然死している。下田の保管していた『東京パック』の原画は、奇跡的に空襲による焼失を免れ、現在は目黒区美術館が所蔵している。