江戸勤番図の成立年代

前回、小林法子氏の「大川市立清力美術館の江戸勤番之図」を取り上げた。小林氏は、多くの本が紹介している江戸東京博物館所蔵の「久留米藩士江戸勤番長屋絵巻」以外に、ほぼ同内容を描いた大川市立清力美術館所蔵の絵巻があると紹介し、その最後に清力美術館本と江戸東京博物館本との比較を試みている。そして、清力美術館本で付箋になっている部分が、江戸東京博物館本では直接本紙に記されていることなどから、清力美術館本が先行することは明らかで、江戸東京博物館本は明治に入ってからの写し(模本)と判断されている。その両者の絵巻の関係を小林氏は次のように整理されている。

江戸東京博物館本では、庭の一部分や茶釜の湯気をえがかないなど、清力美術館本において執拗とおもわれた細部の描写に省略がみられる。あるがままをつぶさにえがきとめようとした清力美術館本と、おそらくは題材のおもしろさによってつくられた模本の違いは明瞭である。また江戸東京博物館本において人物の頭体の均衡が整えられている点、比較的澄んだ色彩をもちい、衣の彩色における濃淡が自然な暈かしによってあらわされている点に、清力美術館本との制作年代の隔たりを確認することができる。


この指摘は、一歩踏み込むと、清力美術館本が狩野勝波が描いた原本で、江戸東京博物館本はその模本と言っているようにも受け取れる。小林氏ははっきりとは言及していないが、清力美術館本が狩野勝波の筆によるのなら、『久留米人物誌』が記す明治2(1869)年という没年から考えて、少なくとも幕末には成立していたことになるだろう。さらに、その絵が「執拗ともおもわれる細部の描写」に特徴があることを考慮すると、後の時代に思い出しながら描いたといよりは、天保10、11年から時をあまり経ずに、場合によってはまさに勤番当時に描いた可能性が高いのではなかろうか。戸田熊次郎の序文を見ると、「六畳敷の萍寓はかの安楽寓にもをさをさおとるましき也さるをこつこゝゑにして古郷人にもしめしかつはやつかれの昔語りの一助ともなし…」の文があるが、勤番長屋での様子をこつこつを描きため、故郷の人にも示して昔語りをする一助にすると解釈できそうである。つまり、勤番長屋の微に入り細に入りの描写は、決して後世、記憶を頼りに描いたようなものではなく、勤番長屋のもてあます時間の中、勝波がこつこつを描きためたものと考えられる。


勤番武士は外部でいざこざを起こさないように、外出規制がかかっており、長屋で過ごす時間がかなり長かった。その時間は例えが悪いが、牢屋で過ごす時間に似ていたであろう。1月23日のブログに「ある宇和島藩士の江戸日記」として有り余る時間を、故郷のことを話しながら過ごす勤番武士を紹介したが、それと同様に誰かの長屋に集まり、それぞれの得意分野を活かしながら、勝波の絵を江戸勤番図として作り上げていく武士の姿が思い浮かぶ。勤番武士の多くが、その生活の様子を日記に認めて手紙と一緒に家族に送っていたことを、これまでも宇和島藩士の三浦家文書を通じて紹介してきたが、絵を描く技術がある勝波と勤番仲間たちは、手紙よりもイメージしやすい絵をもって留守家族に日々の様子を伝えたのではなかろうか。もしそうだとすると、これまで江戸東京博物館本で紹介されてきた、勤番生活を明治になって回想しながら描いたとする見方は修正される必要が生じてくる。私自身は、江戸勤番図を勤番武士が自ら同時代に描き遺したとてもリアルな史料として評価すべきと考える。


なお、清力美術館本には、後世に付けられたと見られる付箋がいくつか見られる。この付箋について、小林氏は次のように記している。

この付箋の筆者は、たとえば付箋一において、戸田熊次郎の子や孫の博学に言及し、付箋八においても橘豊太は今の橘新平の祖父と述べることから、清力美術館本の登場人物の孫の時代に生きた人物であることがわかる。付箋一に旧久留米藩と記すことからも、この付箋は廃藩置県後につくられたと推察できる。

小林氏が指摘する以外にも、付箋三に「▽外科医△中島文叔▽中島百枝ノ祖父ナリ…(下略)…」、また剥落の付箋二にも「武藤弥兵衛▽武藤徳蔵ノ父△」とあることから、付箋が清力美術館本の登場人物の子どもから孫の時代に付けられたという判断は妥当であろう。その時期は江戸東京博物館本が模本として制作された時期に近いものと思われる。子どもから孫の時代に、江戸東京博物館本の作者により清力美術館本の江戸勤番図が見出され、その後関係者の子孫からの聞き取りのもと付箋が付けられ、さらにそれをもとに表現を整える形で江戸東京博物館本が制作されるという流れになる。付箋が付けられ、江戸東京博物館本が制作された時期は、明治時代後期に想定できるのではなかろうか。小林氏の清力美術館本の論考は、江戸勤番図を勤番武士が生きた同時代史料として捉えることを示唆していると考えた次第である。

と、ここまで書いて江戸東京博物館の収蔵品検索で、「久留米藩士江戸勤番長屋絵巻」を見ると、制作年代が天保11年頃とされている。以前の「参勤交代」の図録では明治時代となっていたが、その後見直しがあったのであろうか。でも、タイトルの後に粉本と記されているが、いかがであろうか。
http://digitalmuseum.rekibun.or.jp/edohaku/app/collection/detail?id=0186200129&y1=1821&y2=1841