余聞 タルトの由来

 昭和5年発行『伊豫乃松山』創刊号の松山新名物記には、松山銘菓のタルトが記されていません。その時代、タルトがつくられていなかったわけではないのは前回記したとおりです。では、タルトの歴史はどのようにまとめられるのか。調べてみてもこの問題には簡単に解答が得られそうにありません。インターネットでは大抵、松山藩初代藩主松平定行が正保4年に長崎探題として長崎に行った際に、南蛮菓子に接して感動し、その製法を松山に持ち帰ったことが伝承として記されていますが、その後の記述は簡略なものが多いようです。ところで、以前調査した資料の中に道後で現在も営業中である田中玉宝堂さんの「タルトの由来」というパンフレットを見つけました。このパンフレットがタルトの歴史をしっかりとまとめているようなので、紹介します。

           タルトの由来
 松山の銘菓タルトは、その風味の高雅と滋養の豊富なことは他の菓子の追随を許さないもので、夙に銘菓中の銘菓として普く賞讃を博して居ります。
 タルトは元仏蘭西の菓子で昔葡萄牙船が種ケ島に鉄砲を伝え次で西暦一五五四年(天文二十三年足利義輝の時代)以来澳門マカオ)を本拠として毎年日本へ貿易船を送り西班牙や和蘭船によって羅紗、煙草、蝋燭器、石鹸等種々の異国産物が盛んに舶載されパン、カステーラ、金平糖、ボーロ、アルヘイ、タルト等の南蛮菓子も伝えられたのであります。
 松山のタルトは松山藩久松家初代藩主松平定行公正法元年(西暦一六四四年)四月八日長崎探題に任ぜられ、居館を賜り長くこの地に在役せられたが定行公はタルトを大変珍重がられ公の秘蔵菓子として居られたものであります。カステーラ其他の南蛮菓子が全国に伝えられて居るのにタルトのみは松山以外で見る事が出来ないのもその為であります。
 松山地方でも安政年間の記録にその名が出て居るが一時は殆んど中絶し明治二十三、四年の頃より松山市内の菓子屋で作り店舗で見受ける様になったが当初はその味形共に現在のような高尚なものではなかったが時代の進歩と嗜好の向上は製法の変革を余儀なくされ外皮の製法に大変革を加え又餡には(柚子)香味を加え、最も高尚優雅な風味と形態を備えた現在の銘菓となったのであります。
 当舗に於きましては更に苦心研究独特の技術を加えると共に卵の■定と純粋な蜂蜜を加えると共に餡の製法は特に意を用いて居ります、松山の特産品として現在全国各地より続々御注文の栄を担って居ります、無上の銘菓であり且又永く保存が出来るので御土産、御贈答品として最適であります。何卒御用命の程御願い申し上げます。
                      田中玉宝堂店主
   注意 薄刃庖丁の両面を濡れ付近でしめし乍ら切ってお召し上り下さい

 タルトの歴史を記す場合、松平定行云々の記述はどこも共通しています。安政年間の記録に登場するとあるのは、前回の「喰道楽」を指すものと思われます。それなりに史料の裏付けをもって記されているようです。そして、タルトはその後一時ほどんど中絶してしまい、明治22,23年頃から松山で見受けられるようになったと記されています。タルトはどうも幕末以降ずっとつくられていたわけではなかったことがうかがえます。そのタルトも時代と共に製法が変化していることも記されています。タルトについて記した文章としては比較的長いもので、具体的な年代も入っているので、ある程度信頼できるのではないでしょうか。ちなみに、この「タルトの由来」、現在でも田中玉宝堂さんはつかっているのかしら。