創刊号 松山新名物記2

◆薄墨羊羹
名物にうまい物無しとは云へ薄墨羊羹は確かに美味い、薄墨羊羹は伊予節に有る薄墨桜の名花に因むで創製したものであるが本舗中野は京都風の商品見せずの看板だけの商ひで一日優に四五十円の売上げといふから大したものである。


◆カステーラ
カステーラといへば長崎と指を屈するが松山のカステーラは長崎の…(中略)…全国的でも優れたものであるが就中カステーラはその尤なるもので在る、その焼け工合と味は格別である。


◆子規せんべい
糸瓜庵の子規せんべいは新興名物の最たるものであろふ、松山が産んだ俳聖子規に因むで作られたもので凝つた煎餅に子規居士の句が焼かれて居るところ菓子といふよりは芸術味が多い。
   門〆に出て聞いてゐる蛙哉
   淀川の大三日月やほと々ぎす
  石手川
   若鮎の二手になりて上りけり
   水草の花まぐ白し秋の風
   石手寺に廻れば春の日暮れたり
   草花や露あた々かき温泉の流れ
   欄干と並んで青の山低し
だの、まだまだ沢山の句を出て来る、懐しい気持ちに満ちたこの名物は松山は気分と一番ふさはしいものである。


◆坊ちやん団子
子規せんべよりモダーンなものは道後の坊ちやん団子である、漱石の坊ちやんが好むで喰べに行つた頃あんころ餅であつたがそれが湯晒し団子となり数年前から坊ちやん団子と源氏名をかへ色も一色から黄、赤、白を交へて坊ちやんらしくまるまると太つて来た、味は淡泊で恰好が…(下略)…


◆石手の焼餅
石手の焼餅は鄙びた感じをそのままに昔から附近随一の名物と云つても良かろふ、起源は判らないが随分古いものらしい、南無大師石手の寺の御大師様の御利益は寺前十餘軒の茶店の年中の炊煙を焼餅に利益してゐる、昔はしょぼしょぼした婆さんが焼竈に鈍臭い手付で木彫りの版こを動かしてゐたが世が移ると焼餅にも世相が乗つて美しい娘が特別仕込みの別嬪さんが道ゆく人を見送る如に成つた、菜の花に菅笠が並ぶ春の四国路の五十一番の札所の香煙にむれる焼餅の味には順礼の味ひがそのま々残り無く出てゐる、春さきから夏の縁日にかけては多い家は一俵からの米を粉にして焼餅で売るといふから素晴らしい。


※中略、下略部分は、ページとページの間でコピーが読み取れない部分。

 昭和5年頃の松山銘菓のラインナップになります。このうち、現在なくなっているのは子規せんべいといったところでしょうか。少し気になるところは、現在の松山土産として有名なタルトが見えないこと。松山の菓子の歴史については、調べてみると先行研究として柳原多美雄氏「松山地方の菓子に就いて」(『伊予史談』93号)があることが分かりました。そこでは安政5年の松山藩の物好きが書き残した記録として「喰道楽」という資料が取り上げられ、下戸が好むものとしていろいろな菓子が記されています。
その中に次のようにタルトが登場します。

一、玉子入り ○たると(紙屋町のものよし) ○かすてら(紙屋町のものよし)


したがって「喰道楽」からは、安政期に既にタルトがつくられていたことが分かります。柳原氏はさらに文政前にはタルトがつくられていたと記していますが、その根拠となる資料は分かりません。このタルトの歴史については、次回別の史料を取り上げてみたいと思います。


 また、『伊予乃松山』創刊号に広告を寄せている菓子店をあげると、「子規せんべい 松山大街道 糸瓜庵」「薄墨羊羹 松山大街道 中野本店 電話一〇四七」「名物坊ちやん団子 道後湯之町 三浦一郎」になります。つまり、『伊予乃松山』ではスポンサー企業に限り、新名物として記載しているということになりそうです。どうもその辺にタルトが登場しない理由もありそうです。