創刊号 松山新名物記1

古い名物は伊予節で紹介されてゐるが新興の松山名物は未だ多く知られてゐない憾がある、新名物記を書く所以であり名物にうまい物在るを知らせ度いのである。

◆美術竹細工
文人籠と云へば今では京都を始め別府、有馬、静岡、新潟、松山と全国でも数ケ處指を折られるが京都を除く外は皆其の歴史が新らしいものである、別府、静岡、新潟は最近の名産であつてそれに比べると松山は遙かに古い歴史を持つてゐるし、当業者にとつては日本最古の沿革を有すると自慢するのである、兎まれ松山の籠の気品は慥かに群を抜いたものであることは何人も異論は無い、松山の籠の歴史は旧藩時代藩の警備に置かれた三津の御舟手組の内職に始まる、此当時のものは普通実用籠、魚釣籠の類であつたが中には既に今日の文人籠の気韻が見えてゐたのもあり時の茶人玄々斎来松の砌り激賞されたが動機となし大進歩を遂げたのである、その先覚者は高橋唯次氏でその以後現在は佐伯保、白石兵太両氏あたり中心となつたものであるが時遙々明治四十年前後の不況により職人の多くが別府、神戸等に離散し、別府、神戸籠の濫觴を為したのである。現在産額が約十四五万円其気品ますます冴えて来た、是非お薦めしたい土産の一つである。


水月
漱石の行人には芒の葉を渡る小蟹の細密な描写がしてあるが水月焼は此の蟹が第一の得意である、古雅な湯呑、菓子皿其他の楽焼の中から小蟹が千里横行の姿を現はしてゐる處は非常に雅味がある、其他万年青、蔦、枇杷等が取材され其の渋味と閑雅な色合は全く独歩の趣きである、これは大正十三頃先代先代水月の主人好川方渡君が松山市萱町に竈を築いたのに創まり只今は二代水月の世に成り技術は益々進んで来た。


◆ていれぎ味噌
大正八年頃山澤食料品店主が伊予節の名物「ていれぎ…(中略)…れて風味を添える事に成功したのがこれである、「ていれぎ」は水たがらしに族し特殊の風味を有ち刺身のツマには絶好のものである、それと山葵を連想して作つたのが狙い處ともいふべく山葵味噌とは又自ら別の風趣を有する、全国には例の無い名物である。


◆ひかぶら漬
緋かぶらの歴史は別項で書いてあるがこれは其の加工品である、伊予節に出る緋かぶらは松山市の特産品でこれ以外の地にはこの風味と色を出すことが出来無い、毎年十一月、二月翌年一月にかけて漬け込み一月から三四月までの間に食べるのである。其の美しい色合と特殊な風味は全国的に賞讃せられてゐる、現在の産額約五万円。


◆伊予絣
伊予絣もまた伊予節に唄ひ込まれた名産である、発祥は文化年中今より百二十餘年前松山在今出村の鍵谷カナ女の創意にか々り当時は今出絣と云ふたものであるが段々発達して松山市を中心とする伊予、温泉二郡に渉り製織され今日の伊予絣と成つたものである、明治十三四年前後には年産額僅かに四十五万反内外であつたが其後改良を加へ時流に投じ大正十二年の最盛期には実に産額二百八十万反金額九百万円を越えた、それ以後一般財界不況に禍されて稍下火を免れぬが猶二百三十万反を算出して地方随一の主要物産である。


◆五色素麺
五色素麺は松山の名物中一番古い…(中略)…ば創始はそのずつと以前の事と思はれる、その後大内山にも献上し雲上人にも長門屋素麺と其の美しさは知られてゐたらしい、長門屋素麺とは桑名の人長門屋市左衛門が藩祖入国に随伴来松し創製したにはじまる、其後五色素麺と名が変り将軍家等へも年々献上した由緒を有ち伊予節に謳はれたのである、現在でも博覧会や共進会の度毎掛素麺の如な美しい素麺を至る處に見るであろふ、兎に角松山随一の古い名物である。


※中略部分は、ページとページの間でコピーが読み取れない部分。


次回は昭和初期の松山銘菓の記述がでてきます。