創刊に際して

                         創刊に際して
                                               松山市長 御手洗忠孝 


 未知の土地に旅行した時只一通りの一遍の案内記等を読むで引き廻される心持ちは恰度唐黍の殻でも囓じる如に徒らに気ばかりガザガザして泌々した味ひは無い、心身共に忙しい近代人の生活の半面には偶に旅行でもしてノンビリとして心地に成りたいといふ欲求が段々と激しく成つて来る如だが其とて只事務的に走り廻ることは却つて忙しい許りで苦痛である、近来各地で発刊される案内記等は此の弊害を緩和することに尠なからぬ努力が払はれ暫時旧套を脱して来ることは悦ばしい事である、元来旅行先で予備知識の幻が想像以下の現実に打ち毀されて呆然たる悲哀を感ずること程惨めなものはない、吾々も度々這■経験があるが是れ等は多く事実を誇張した案内記等の罪であつて甚だ不愉快である、佯らざる紹介宣伝を為してこそ其の土地、其の風俗、其の人情、其の産業、其の雰囲気を多くの人に真に理解して貰ふことが出来るのではあるまいか。


 『伊豫乃松山』は此の意味から生まれたものである、諸種の事情で発行の回数が多くないことと、紙面が狭いことは遺憾であるが這箇の消息に鑑み佯らざる松山及其の附近の紹介を為し些かでも旅行者の参考に資すると共に地方開発の一助としたいと希ふものである。

※一部旧字を新字に改めるなどの改変をおこなった。■は判読不明

 昭和5年に創刊した『伊豫乃松山』。その創刊に際して松山市長の御手洗忠孝が寄せた文章を読むと、『伊豫乃松山』が松山及びその周辺地域の観光案内を意図して刊行されたことが分かります。大正から昭和初期にかけては、庶民の観光旅行が盛んになりはじめた時代。「大正の広重」こと、吉田初三郎が日本各地の観光地のパノラマ鳥瞰図を次々に制作した時代でもあります。
 松山では昭和2年に予讃線が開通して、高松と松山が鉄道が結ばれます。その開通を記念して城北練兵場で開かれた全国産業博覧会にはたくさんの人が押し寄せていますので、そのことがきっかけとなり、観光振興がクローズアップされてきたのかもしれません。次回には二の重さんのコメントもありましたので、松山新名物記を紹介します。