御ためしもの

氏家幹人 大江戸死体考―人斬り浅右衛門の時代 (平凡社新書 (016)) を読み進める。
人切り浅右衛門のような見事な腕前で、
江戸のアンダーワールドが描き出されている。
江戸は死体だらけで、
特に浮き死体が多く、それをいちいち検死するなど不可能で、
海に出た死体は波任せ、川に漂う死体も流れに任せ。
まさに『四谷怪談』を彷彿とさせる話し。


さらに、死体がらみでは、
戦争がなくなった江戸時代を生きた武士たちが、
死体を使って様斬(ためしぎり)をしていた話しに。
初期の殿様は自ら様斬(ためしぎり)をしており、
氏家氏は和歌山藩初代藩主徳川頼宣
水戸黄門様こと徳川光圀などの事例を取り上げている。
徳川頼宣は諸大名の中でとりわけ様斬が好きだったようで、
人を立たせて袈裟掛けに斬り下ろすと、
斬られた人の身体は、
まるで時代劇の劇画のように
立ったまま真っ二つになったという記録も。
実に生々しい話し。
と、ここまで読んだところで、
かつて読んだ記録のある記述が蘇ってきた。
それは様斬大好きだった頼宣の3男で、
西条藩主となった松平頼純についての記録。
頼純27才である
寛文7(1667)年3月26日の項に次の記述があった。


頼純主 公儀より囚二人御もらひ、八丁堀におゐて御ためしもの被成


蛙の子は蛙とでもいうか、
頼純もまた様斬を行っていたことが分かる。
ただし、公儀より貰ったとあるように、
当時は大名とて武士、
様斬を当然訓練として行うべきこととする風潮があったのも事実。
しかし、時代が移り変わり、
様斬大好きの頼宣についても、
氏家氏は和歌山の藩儒那波道円の諫言により、
試し斬りを行わなくなったというエピソードを掲載している。
江戸時代も17世紀半ばを過ぎると、
武士にも残酷で血なまぐさい処刑や試し斬りに関わるのを
忌避する風潮が顕著になっていく。
そして、人斬り浅右衛門のような
試し斬りの専門職が登場することとなる。
頼純は殿様として様斬りを行った最後の世代になるのかも。