江戸後期の出稼ぎ大工

民俗学者宮本常一は自らの故郷、周防大島のことを、
忘れられた日本人 (岩波文庫)の中で次のように記しています。


私の郷里は江戸時代後期になって特に人のふえたところである。
そうして天保頃にはもう飽和状態になっていた。
そのくせ分家はどしどしさせていたのである。
これは農業以外の職業で飯を食うことができたからである。
もとより、村内にそうした仕事があったわけでなく、村外にあった。
大工・木挽・石工・水夫・浜子など、
男の働き口はいくらでもあって、
二、三男はそうした仕事をもとめて他郷へ働きに出かけた。


宮本は周防大島を出稼ぎ労働力を輩出した地域と描いていますが、
これは周防大島に限らす、瀬戸内海島嶼部全般にあてはまることで、
近世後期になって顕著となった現象とされています。
その背景として、
そうした労働力を受け入れる瀬戸内海周辺地域の経済発展があり、
その結果さまざまな形での労働力需要の増大があったことが、
想定されてきました。
これは妥当な考え方だとは思いますが、
でも実際にこれらの労働力、
特に大工などの職人たちが出稼ぎ先の地域でどのように受け入れられてきたのか、
このことについては十分に研究されてきたとはいえないようです。
このテーマに取り組んだ論文として、
森下徹の「出稼ぎ大工と地域社会」があります。
この論文は近世瀬戸内海地域の労働社会に所収されています。


森下氏は、
幕末期の岡山藩領と萩藩領を素材に、
出稼ぎ大工の受け入れる地域の問題を検討しています。
第一に、これらの地域の地元の大工のことが取り上げられます。
地元の大工は、城下町に限らず在方でも成長し、
専業化した大工が、
支配機構に依拠したものでありつつも、地域的な一種のカルテルを結び、
同職集団化の動きを見せています。
第二に、普請を実施する村側の対応策が検討されています。
瀬戸内海地域では、
芸予諸島、塩飽島、周防大島などからの出稼ぎ大工が、
18世紀後半以降から多くなっていきますが、
それは地元大工が未熟な地域に入っていったわけではなく、
価格協定などで成長を見せる在方大工に対して
より安い作料で普請を行う出稼ぎ大工を招致しようとする
地域的な対応であったともいえるわけです。
第三に、出稼ぎ大工側について。
多くの出稼ぎ大工が幕末まで輩出され続けるのは、
労働の組織化や資材確保などで、
何らかの有利な条件を保持していたことが想定されるということ。
宮本は故郷なので当然ではありますが、
出稼ぎを出す地域に視線を送っていますが、
森下論文は、
江戸後期の瀬戸内海地域の出稼ぎ労働を
受け入れる地域の側から捉えようとしています。