日本一長い日記

佐野眞一 枢密院議長の日記 (講談社現代新書) 読了。
この本のもとになる日記を書いた主は倉富勇三郎。
といっても、現在その名前を知る人は少ないでしょう。
実は私も初めて知りました。
倉富は嘉永6(1853)年に久留米藩の漢学者の家に生まれ、
東大法学部の前身、司法省法学校速成科を卒業後、
東京控訴院検事長朝鮮総督府司法部長官、宗秩寮総裁事務取扱、
李王世子顧問、枢密院議長などの要職を歴任、
最後は故郷に帰り、昭和23(1848)年に数えで96歳で亡くなっている。


この倉富のユニークなところは、
とくかく日記魔で、毎日書きまくっていたこと。
倉富日記は現在、国立国会図書館の憲政資料室に寄贈されていますが、
小型の手帳やら大学ノートやらいろいろものが297冊が残り、
執筆期間は大正8(1919)年から昭和19年までの26年にも及んでいます。
宮内庁の官僚だけあって、
裕仁親王(後の昭和天皇)の妃に内定していた良子女王(後の香淳皇后)が、
家系が色盲の遺伝を持った家系であるとして、
元老・山縣有朋たちが女王及び同宮家に婚約辞退を迫った事件である
宮中某重大事件をはじめ、
皇族や華族のゴシップの数々が日記には書き留められています。
そこからは
大正から昭和初期の天皇制の危うさも伝わってきます。


日記の書き方も独特だったようで、
倉富に情報をもたらした人物との会話の様子が
抜群の記憶力により延々と記されています。
佐野さんいわく、
冗長ななかに歴史観をくつがえすような貴重な証言が、
時折不意をついて出現する、
そんな日記が倉富日記なのです。
佐野さんはこの膨大な日記を使って本を書くために、
はじめてパソコンを導入したそうです。
そして、見事に倉富日記のエッセンスを提示しています。