奥山弘平の正体1

二の重さんから宇和島藩士奥山弘平についてコメントいただいたので、
ちょっと調べてみました。


まず宇和島藩士のことを調べるとなると、
なにをおいても『家中由緒書』。
一番年代の近い弘化4年の由緒書を見てみましたが、
「奥山與次右衛門」という人物がいますが、
どうもこの人物とは違うみたい。
二の重さんのおっしゃっている
藩校の素読指南方という記述は見つかりません。


佐藤信淵と関係があり、農政指導ということになると、
それなりの文化人かと思い、次に『国書人名辞典』を見てみました。
そうすると出てました。
奥山鳳鳴(おくやまほうめい)
漢学者。生没年不詳。
天保頃の人。42歳で没。
名が操。字が存中。通称が弘平。号が鳳鳴
伊予の人。近藤篤山に学び、盛岡藩に仕えた。
著作は「救荒瑣論」(天保八)、「四均総」、「赤子問答」、「松の一葉」。
参考〜近世漢学者著述目録大成


『国書人名辞典』では伊予の人とありますが、
宇和島かどうかは確定できません。
近藤篤山の門人で、盛岡藩に仕えたという情報が新たに出てきました。
この盛岡藩でピンときたこと。
確か佐藤信淵盛岡藩に関係していたような。
そこで、佐藤信淵について研究した
稲雄次氏の佐藤信淵の虚像と実像―佐藤信淵研究序説をめくってみると、
信淵門人の奥山弘平が、盛岡藩家老兼近習頭の横澤兵庫に陪して
南部へ下り礼遇を受けることになったという記述があります。
奥山弘平−佐藤信淵のラインは、横澤兵庫と結びついており、
その中で信淵の子ども昇庵が盛岡藩藩医に取り立てられています。


奥山弘平と盛岡藩のつながりはつかめてきましたが、
それでは奥山弘平と宇和島とのつながりはどうでしょう。
これについては次回に記します。