幾島の実像

家族が大河ドラマ篤姫」を欠かさずに見ているので、
久しぶりにほとんど見ています。
思い起こせば子どもの頃、昭和53年の「黄金の日々」から見始めて、
峠の群像」あたりまではかろうじて見た記憶はあるものの、
それ以降は遠ざかっていました。
大河見るぐらいなら、
歴史本でも読んだ方がいいと思うようになったのかもしれませんが、
久しぶりに見ると、少し新鮮に思えてしまって。


それはさておき、
篤姫」には松坂慶子演じる奥女中、幾島が出ていますが、
現在読んでいる畑尚子さんの幕末の大奥―天璋院と薩摩藩 (岩波新書)の中に
幾島のことが書かれていたので、
実際にはどのような人物だったのかメモしておきます。


幾島が薩摩とのつながりで最初に歴史に登場するのは、
薩摩藩9代藩主島津斉宣の娘で、
近衛忠煕正室となった郁君に、島津家から付けられた老女藤田として。
郁君の死後、京都で隠居し徳浄院を名乗る。
篤姫付になることが決まると、
幾島と名を改め、箔を付けるために、
近衛家家士今大路孝光を里方とし、故今大路孝由の実子とした。
安政3年3月29日、幾島は二人の下女を伴い京都を出発、江戸に向かう。
江戸では、幾島を幕府女中の職制で、
どのように位置づけるかをめぐり、
幕府と近衛家・島津家で調整が行われる。
幕府は姫に近仕し身辺の世話をする中年寄を考え、
近衛・島津家サイドは単なる世話役ではなく、
将軍継嗣問題の大奥におけるパイプ役としての役割を期待して老女を主張。
最終的には「篤姫君付つぼね」という老女で決着。
幾島は「昨夢紀事」に、
「女丈夫といえる類にて、心逞しく肝太き本性」と記されている。
また、顔に大きなこぶがあり、
みんなは陰で「こぶ、こぶ」と呼んでいたという。
継嗣問題について、
篤姫は状況により判断を変えているのに比べると、
猪突猛進に島津斉彬の内命を実行しようとする。
継嗣問題の決着後も、
薩摩藩の奥向きにたくさんの書状を送っており、
幕府と薩摩藩の奥向きとの日常的結びつきが見られる。
元治元年体調をくずし、戸塚静海の診察を受ける。
慶応元年閏5月頃、長患いにより奉公をやめて、
篤姫のもとを去った可能性が高い。