家計簿の中の昭和

澤地久枝 家計簿の中の昭和 を読みました。
昭和の生活史とも読めるし、澤地久枝さんの自伝としても読める、
読み応えのある本でした。
澤地さんは昭和38年5月から今日まで、
どんな名目でお金が入り、何に使ったかを家計簿に付けているそうです。
また、それ以外にも中央公論社に勤めていた頃の給与明細やら、
なにやらいろいろな書類が残っています。
それだけに、これだけ実感のこもった数字が並んだ
珍しい自伝が書き上がったのだと思います。
澤地さんのプロフィールをざっとまとめると、
下記のようになります。


昭和5年、東京の港区青山北町で生れる。父は大工。
昭和10年、父の満州での就職により渡満。
昭和13年、新京から吉林市へ移り、ここで敗戦。
一年間の難民生活をして日本へ帰る。
昭和22年、一家で上京。原宿の一面焼け野原でに焼けトタンのバラックを建て住む。
昭和24年、中央公論社へ入社。経理事務員をしながら定時制高校の最終学年と早稲田大学第二文学部に学ぶ。
昭和29年「婦人公論」編集部へ配属。
昭和38年退職。
心臓手術後の僧帽弁狭窄症再発による心臓喘息に苦しみつつ
五味川純平氏の歴史長篇「戦争と人間」の助手として巻末の註を担当。
昭和47年、「妻たちの二・二六事件」を上梓。
昭和48年よりフリーのライターとなって現在に至る。


本の中では、とくに五味川純平さんの助手時代の話しが特に面白かった。
「戦争と人間」のために、
必要な資料は値段を問わず神保町の古本屋などで買いあさり、
場合によっては、双方でもつようダブルセットで買ったという買いっぷり。
古本屋から送られた来た目録からも買ったが、
澤地さんはなぜかくじ運が強かったらしい。
当時安かったので、力を入れて買ったのは、
新聞の縮刷版だったらしい。
縮刷版は当時は誰も顧みなかったため、バラ売りだと200円ぐらいで、
昭和10年代を中心に次々に買い集められています。
なんと、澤地さんはそれを全ページ読み抜き、
朱のサイドラインを引き、
主要記事や特色ある広告を全文書書きうつしたそうです。
そして、そのことがその後の澤地さんの仕事の土台になっていったといいます。
現在はマイクロやデジタル技術、インターネットなども進んでいますが、
そうして簡単に手に入れた情報は自分の中に残らないものです。
澤地さんのように、
手書きでがりがり写していく作業をしないと、
いろいろな情報が自分の血や肉となっていかないのかもしれません。


ちなみに、澤地さんが初めて原稿料をもらったのは、
中央公論」臨時増刊への寄稿「二、二六事件の若い妻たち」。
昭和45年のことで7万4千円だったそうです。
そして、その原稿を発展させて数々の取材の後に、
昭和47年に『妻たちの二、二六事件』が刊行されます。
初版が7千部。定価580円。1割の印税で約40万円。
それが増刷され、平成3年のハードカバーの最終版まで累計8万3千5百部。
それ以外に文庫版で30万部を超えているロングセラーになったとのこと。
ロングセラーになったことで、生活が支えられ、次の作品に取り組めたようです。
そのあたりの事情については、
当時ひとつのテーマを書き下ろすための取材費として約100万円。
3冊目までは書き下ろしができたと書かれています。
爆発的でなくても、いい本がじわじわと売れた幸せな時代だったのかもしれません。


三十余年間に状況は激変し、
今ではわずかな人のほかは、
原稿を書くだけでは、生活を支えられない。
人生の終息点に身をおいて、
わたしは後輩たちの悪戦苦闘を見守るしかなくなった。
本は売れなくなり、いのち短く、活字文化の衰退いちじるしいのだ。


このように澤地さんが書かなければならない、
現在の出版状況につい寂しさを感じてしまいます。
(そんな自分も図書館で借りて読んでいるのがなんとも申し訳ない)