もう一人の女写真師

愛媛新聞には昭和53年5月31日から
佐々木忍編集委員執筆の
「愛媛の写真ルーツを探る」という連載が掲載されています。
全体で44回の連載ですが、
その後寄せられた情報をもとに続編18回が追加されているので、
それなりに好評な連載だったのかもしれません。
以下はこの連載をもとに紹介します。


連載の中で注目されるのは、
昔、川之石(八幡浜市保内町)で写真が盛んだったということ。
明治37年に川之石には既に4軒の営業写真館があったことが記されています。
川之石は江戸時代から廻船で栄えた町。
人々は船を通じて外の世界に開かれていたからこそ、
写真文化も容易に定着したのかもしれません。
ちなみに、愛媛県下で最初に銀行ができたのも、
明治11年設立の川之石の国立二十九銀行というのですから、
川之石が当時如何に活気に満ちた町だったかが分かります。
その川之石で明治23年に一枚の写真が撮影されています。
それは第一回衆議院議員選挙に立候補した兵頭昌隆の応援に駆けつけた
板垣退助を囲んでの記念写真。
撮影場所は兵頭昌隆が建てた宇和紡績工場ということで、
まさしく愛媛の近代を象徴する写真といえそうです。
ところで、川之石にはこの写真と
ほぼ同年代に撮影されたものが何枚か残っていて、
その中に「宇和島写真師土居サダ女」という印がある写真が発見されます。
この女写真師、土居サダ女を探っていくと、
やはり「宇和島鎌原通写真師土居サダ女」の印が
押されている写真が宇和島で見つかります。
これら二枚の写真は明らかに同じ写真スタジオで撮影されたもので、
しかも撮影されている人物の年齢から考えて、
後の写真は明治7,8年とさらに早い時期に撮影されたものと推定されています。
つまり、明治初頭には宇和島の鎌原通(京町)に、
女性写真師が営業する写真館があったということになります。


日野水ユキエの報道写真に比べて、
営業写真を撮影している女性は確かにそれなりの数はいたと思われます。
しかし、これだけ早い時期の女写真師は珍しいのではないでしょうか。
日野水ユキエに先行する女写真師の一人としてここに記録しておきます。