謎の女写真師

黒岩比佐子 編集者国木田独歩の時代 を読了。

編集者国木田独歩の時代 (角川選書)

編集者国木田独歩の時代 (角川選書)


本書は『武蔵野』を書いた自然主義作家で名を残す
国木田独歩が実は有能なグラフ誌の編集者だったことを紹介したもの。
日露戦争の時代、写真と絵画を目玉に独歩が編集を手がけた
『近事画報』は臨時増刊され『戦事画報』を名乗り、後発の競合誌を圧倒します。
こうした独歩の編集者としての知られざる一面が生き生きと記されています。


この本の中で一番驚いたのは謎の女写真師のこと。
野次馬を掻き分けてニュース写真を撮る大変な仕事に、
近事画報社では女性写真師も一人採用していたのです。
女性の報道写真家の先駆者ともいえます。
しかも、その女性が愛媛出身というので、二重に驚きました。
名前は日野水ユキエで、以下はそのプロフィール。
明治20(1887)年生まれ。
父親は伊予の資産家。
地元の女学校を卒業後、
京都の同志社女学校、東京の明治女学校で学び、
明治女学校を明治37年に卒業。
牛込西町五軒町の女子写真伝習所で写真の技術を学び、
明治38年春に近事画報社に入社。
日野水家に婿養子に入った鎌田忠作と結婚、
昭和39年東京で没。


黒岩さんは日野水ユキエのことを、
愛媛出身と記していますが、愛媛のどこかは記していません。
ここからは全くの当てずっぽうですが、
日野水という姓を聞いて、もしかして大洲出身ではないかと思いました。
なぜなら明治末から昭和初期にかけての大洲の絵葉書に
「日野水絵葉書部」「日野水写真部」発行と印刷されたものを多く見かけるからです。
実家が写真に関係している家だからこそ、
抵抗感なく東京の女子写真伝習所に入ったのかなと連想しました。
でも、日野水姓では他に「はきものるい」を商っている
大洲町日野水商店」の引札を見たことがあるので、
必ずしも絵葉書屋さんに限らないとも思いました。
そんなことを思いつつ本をぺらぺらめくっていると、
小川宗勝『大洲案内』(井口右文堂、1913年)
が参考文献にあがっていることに気がつきました。
その本のコピーをもっていたはずと探してみると、
本の中に日野水姓が見つけました。
「勉強、正札、大洲、名代、最新、流行
 萬はきもの商并大洲風景絵葉書卸所
 本町二丁目 日野水店 電話四〇番」
私が別々の家だと思っていた
履き物商と絵葉書商は実は一緒の店で、
ここがユキエの実家ではないかと推測しました。


そうだとすると、
地元の女学校を卒業という記述も気になります。
大洲だと「大洲の女傑」こと中野ミツの存在が浮かび上がります。
中野ミツは日野水商店とも近い本町一丁目の本屋の女主人。
ミツは女学校の設立に、
大洲財界の重鎮たちと同額の100円を寄付したほか、
校舎や教師も自ら探し出してきます。
そして、ついに私立大洲女学校が開校したのは明治36年。
しかし、ユキエのプロフィールからいくと、
年代的に私立大洲女学校卒業というのは無理があるようです。
古くから「私立愛媛県高等女学校」が松山にありますが、
県立高等女学校が松山、宇和島今治にできたのが明治34年。
ユキエが卒業した地元の女学校は?
ただ、中野ミツが大洲に女学校をつくろうと奮闘していた時期に、
その大洲から東京、そして報道写真の世界へと
羽ばたいていった女性がいたのならとても興味深い。
女学校設立の動きと、女性の自立への動きが共鳴しているようにも思えます。


黒岩さんの本が面白かったので、
ついつい地元に引き付けて妄想していました。
全く違っているかもしれませんので、悪しからず。
今後日野水ユキエのことがさらに解明されることを期待して。