江戸の教育力

昨年紹介した山本博文江戸人のこころ (角川選書)には、
江戸の人々の手紙を書く能力の高さが示されていましたが、
高橋敏江戸の教育力 (ちくま新書)は、
江戸時代の知的能力の裾野に目が向けられています。
高橋氏は昨年国定忠治を男にした女侠 菊池徳の一生 (朝日選書 832)を既に刊行していますが、
そして相次いでこの本の刊行ということで、
これまでの研究を集大成して多くの人に伝えようとしているのかもしれません。


江戸の教育力では、
一人の人物を掘り下げるというよりも、
船津伝次平、湯山文右衛門、藍沢無満など、
高橋氏のこれまでの研究の中でなじみのある人物がたくさん登場します。
それ以外にも、元は江戸の幕臣で、聴覚を失い出奔、
流浪の果てに富士山と箱根連山に挟まれた現代の裾野市に翼を休めた
手習師匠柳沢文渓など魅力ある人物が新しく登場します。
聴覚に障害があった文渓が、筆談により手習師匠をつとめ、
果ては村人の訴訟相談から、荒廃する村の復興への指導者となるあたり、
まさに江戸の教育力を感じさせる人物です。


また、鈴木俊幸江戸の読書熱―自学する読者と書籍流通 (平凡社選書 227)で紹介した、
難しい儒学をかみ砕いて読みやすくして出版、
江戸時代のベストセラーになった経典余師についても高橋氏は言及し、
これらが手習師匠たちの身近な有力な指針となっていたことを指摘しています。
コラム「図書館もあった」で、
いくつかの民間の図書館が紹介されているのも興味深いところ。
なかでも桐生新町の豪商長沢仁右衛門がつくった
私設図書館潺湲舎の事例が貴重。
(この部分は、清水照治「長沢仁右衛門と私設図書館潺湲舎」に依拠)
長沢の書籍の購入先は江戸の有名書肆須原屋で、
四書五経にその注釈書、漢詩文、歴史書、和歌集、物語、地誌、医学と、
ジャンルにも広がりがあります。
そして、図書館機能として、
寛政11年から享和元年の書籍の貸借帳によると、
貸借先は遠く奥州岩城から隣国野州熊谷、上州では前橋、中里に及んでいます。
最も多いのはもちろん町内で、
日帰り圏では使用人が使い届け、
遠方は京屋、嶋屋などの飛脚便が用いられているという。
商取引の拡大とともに、書籍を介した知的ネットワークも広がっていきます。
読むと江戸時代の教育力の力強さに引き込まれます。