勤番武士の外出規制

宇和島藩士三浦義陳の寛延3年の江戸での仕事ぶりを以前紹介したが、
その間に宇和島藩主村候と佐賀藩鍋嶋家のお姫様護姫との
婚礼があったこともあり、
かなり多忙な日々を送っていたことが明らかになった。
では、宇和島藩邸から外出する機会はどの程度あったのだろうか。
日記が記された257日間のうち、
殿様の御供などの公用を除き、私用で外出した日数を数えると、
わずか16日を数えるのみである。
約9カ月間の日記なので、1カ月平均2回にも満たない。
あるいは近場の外出は書き落としもあるかもしれないが、
義陳の日記には毎日のように記述があることから、
遠出についてはほぼ網羅して書き記しているものと思われる。
勤番武士には藩から外出規制がかけられていたので、
外出は必要最小限としていた可能性がある。


松山藩士であった俳人内藤鳴雪は、『鳴雪自叙伝』の中で
松山藩の勤番武士に対する外出規制を次のように記している。


常府の者の家族の外出は比較的自由であったが、
勤番者は、田舎侍が都会の悪風に染まぬよう、
また少い手当であるから無暗に使わせぬようとの意もあって、
毎月四回より上は邸外へ出ることが許されなかった。
その中二回は朝から暮六時(午後6時)まで、
二回は昼八時(午後2時)から六時までであった。
勤番武士はこれを楽しみにした。
彼らはその日になると目付役より鑑札を貰って出て、
帰るとそれを返付した。


松山藩では勤番武士に対して、
毎月4回時間制限付きの外出しか認められていなかったことが分かる。
都会の悪風に染まらないようにという理由はどうかと思うが、
酒などで外出先でトラブルが起こることを恐れてということはあるだろう。
そして、この松山藩の外出規制は、
宇和島藩でもほぼ同様だったものと思われる。