三浦義陳の江戸暮らし5

それではそろそろ三浦義陳の江戸暮らしに話しを戻すが、
義陳は仕事について当番・受取番・代り番・寝番・廻番と記すのみで、
その具体的な内容を日記に書き残していない。
しかし、藩主村候などの御供や使者として外に出た時にはそれなりに書き記している。
今回はその一例として寛延3年10月9日の記述を見てみよう。


伊織様(藩主村候の弟)のお供で、
五ツ半(午前9時)に宇和島藩邸を出発、
三浦玄蕃頭(西尾藩主三浦義理の嗣子、三浦明次)の谷中屋敷下屋敷)を訪問した。
お供は作十郎(井関作十郎)と平治左衛門(義陳)であった。
中屋敷からの帰路が夜分にかかるため、
お供の面々には池之端弁天向の茶屋でつくられた賄い(料理)が出た。
それから上野や感応寺の焼け跡などを見物しながら藩邸に戻った。
見物した上野や池之端の蓮池の景色は「江都之絶景」であった。
藩邸に帰り着いたのは夜四ツ時(午後10時)。
伊織様からは大儀であったとの御意があった。


この日、藩主の弟である伊織が、
谷中の三浦玄蕃頭を訪問するにあたりお供を勤めている。
仕事とはいえ、
不忍池弁天堂付近の茶屋の料理を食したり、
上野、不忍池、感応寺なども見物して、
娯楽的な要素もかなりあったので、
日記の記述も詳しくなったのであろう。
ちなみに感応寺は
谷中にあり元禄11(1698)年に日蓮宗より天台宗へと改宗した寺である。
焼け跡と記されているので、火事に逢った直後であろうか。
幸田露伴の小説『五重塔』で寺名も知られるが、
寛政年間に立てられた五重塔は、昭和32年に放火により焼失。
江戸は火事がつきものというが、
つくづく火事に縁がある寺といえようか。