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一の重です。
今日からまた出勤。
今週から来週にかけて出張も多く、
どの程度日記が書けるやら…
さて、
明和7年12月15日に
火事にみまわれた三浦家。
そして、明和9年3月になり突然、
宇和島藩から屋敷の割り替え命令があります。
当主義陳はその命令を聞き、愚痴を紙面に書き付けています。
屋敷が割り替えになり、
表通りの間口が4間取り上げられ、
そのかわりに2間分の隣屋敷の土地が組み込まれました。
全体的に面積が狭くなり、しかも表通りの間口が2間分減ったので、
とても迷惑しています。
そのため藩は添地を下され、坪数としては以前よりは増えましたが、
この添地はこちらが望んだものではありません。
この間土地の縄張りがされて引き渡されたところ、
その土地には現在まで囲いが少しもなく、
行燈(あんどん)が破れたようなひどい屋敷があるだけ。
さてさて不快なことばかりです。
火事で焼けた屋敷を数軒割り替えしているので、
藩が囲いまで準備するのは難しいというのは
もっともなことではありますが、
しかし縄張りをしただけで土地を渡すというのは前例がありません。
たとえ篠垣程度であってもされてしかるべきところ、
結局は藩もお金がなくてそうされなかったものと思われます。
当時の武家屋敷は藩が藩士に対して支給するものでした。
だから藩がある程度の施設をともなった
屋敷を支給すべきという考えが義陳にはあるようです。
それが火事で屋敷がえになり、
行燈が破れたような荒れ果てて囲いもない屋敷。
こりゃリフォームの匠に頼むしかないですね。
義陳の愚痴は続きます。