越智の随筆「ねさめのよまい」3

ここで、越智の筆は、漢方と蘭方との二つの医術の比較論へと及ぶ。

人の体のことがこれだけはっきりと分かっているのならば、治療の方法もしっかりとしたものがあるだろうと昌山に尋ねてみると、内科選(撰)要という書物がある。もしあなたが医術を志すならば、西洋医書を直に読む必要がある。まず一年程は洋書に力を入れなければならない、と。私も初めは洋書を軽蔑していたが、何分実例をもとにした説明が多いので、医療はここにあると思い、洋書の師匠を求めて読んでみた。もともと才能が乏しく、成長も遅く、その上学資も欠いたが、ただ恩顧の人々の憐れみにより5〜6年間にわたり西洋の治療書をひたすらに読んだ。初め漢方医学を学んでいた時には、蘭は夷狄の国だからといって蘭方医学は用いなかった。しかし、詳しく西洋の医療のことを知った現在、漢方の学説は迂遠であるとも暗技摸旁の治療とも思えてくる。漢方は実験も少ないので治療が難しい。蘭方は書物の中でも大体のことが明らかになっているし、その上実験を積んでいくと名医になることができる。

『医範提綱』により人間の体内部について学んだ越智は、具体的な治療法を求めて再び岩名昌山に質問。『内科撰要』という書物を紹介されている。『内科撰要』とは江戸詰の津山藩宇田川玄随がオランダ人ゴルテルの内科書を翻訳した『西洋内科撰要』のことであろう。日本で刊行された最初の西洋内科書に当たる。寛政5(1793)年に江戸で刊行開始、玄随の没後に版元を大坂に移し、文化7(1810)年に全18巻が完結している。越智の質問に常に的確なアドバイスをしている岩名昌山がどのような人物かはっきりしないが、いずれの質問にも津山藩医宇田川家が翻訳した書物を紹介していることから、その周辺にいた人物ではなかろうか。『西洋内科撰要』により蘭方医療を志すようになった越智は洋書の師匠を求めたとあるが、その師匠とはやはり津山藩医の箕作阮甫のことと思われる。その師匠も岩名により紹介されたのかもしれない。越智は蘭方の書物を5〜6年学ぶなかで、漢方の説をまわりくどいと退けるようになり、治験の上に組み立てられる蘭方の優位性を認識するようになる。