越智の随筆「ねさめのよまい」2

越智の随筆「ねさめのよまい」には、自らの医学修行の様子を記している部分がある。その部分を意訳すると、次のようになる。

私が17,8歳の時から医学を目指すようになり、傷寒論、または香川の諸書、古方家の書物などを読んだ。20歳になり江戸の幕府医官のもとで修行、病人を診察してさまざまな症状の見分けなどを行っていた。医書を読んでも陰陽五行の事が明らかにならないことを知り、人の体の事を詳しく知らなければ、たとえ処方した薬が効いたとしてもそれだけでは不十分だと思い、人の体の事を詳しく知ることができる書物がないかと岩名昌山という医者に尋ねてみた。すると、昌山が言うには、医範提綱という書物に解体図が付いている。その書物はあなたが寄宿している伊東宗益のもとにあるので、それを見るのがよい、と。そこでその書物を見てみると、かたかな書きになっており、あなどりの心で毎夜それを見てみたが、はっきりとは分からない。胃の部分になって少しなるほどと思い、それから幾度も読み返してネズミや猫の解剖も行い、解体図について確信を得た。

越智は文政4(1821)年14歳の時に京都に上り漢学修行、漢文をある程度読みこなせるようになった上で、17,8才の頃から伝統的な中国医学の古典ともいえる傷寒論、香川流の産科書、古医方書など、漢方の書物を中心に学んでいることが分かる。そして、20歳の文政11(1828)年頃に江戸に出て、洋医学論をすすめた『西学論』を著した幕府医官の伊東宗益のもとに寄宿、津山藩医であった箕作阮甫に学ぶという流れになる。

この江戸での修学中に、人の体について詳しく知りたいと考えた越智は、岩名昌山という医者の紹介で医範提綱の解体図を見ている。医範提綱は宇田川玄真が書いた解剖学書で、文化2(1805)年の刊行。さらに3年後の文化5年にはその付図として亜欧堂田善が描いた「内象銅板図」が刊行、日本最初の銅板印刷による解剖図として知られるが、越智が見たのはこの「内象銅板図」である。越智は「内象銅板図」を食い入るように見つめ、ネズミや猫などの解剖を経て、その内容が正しいことを確信する。この記述、小塚原の刑場において腑分けを見学して、「ターヘル・アナトミア」の解剖図の正確さに感銘を受けその翻訳を志したという杉田玄白のエピソードに少し似ているが、それはさておき伊予から江戸に遊学した一人の人物の蘭学との出会った瞬間が描写されていて興味深い。

参考:「内象銅板図」(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2532459