越智粔「ねさめのよまい」1

幕末から明治にかけての郡中愛媛県伊予市)出身の蘭方医越智■(山に松)の随筆が翻刻されていると教わり調べてみる。それは「ねさめのよまい」というタイトルで、国会図書館蔵。土井康弘氏が「京都の蘭方医、越智■が記した随筆『ねさめのよまい』の翻刻」として津山洋学資料館発行の『一滴』第19号(2011年)に紹介されている。

まず、越智■の履歴を自治体史などにより記す次のとおり。

文化5(1808)年大洲領伊予郡郡中灘町、宮内吉通の長男として生まれた。字は高■、通称は仙心、号に桂荘、静慎、仏手仙心、一邨がある。文政4(1821)年14歳の時に京都に上り漢学修行、18歳の時に江戸に出て伊東宗益方に寄宿、蕃書取調所教授箕作阮甫に師事して蘭学修行している。また、阮甫の養嗣子箕作秋坪、林洞海、伊東方成らと交わり蘭医学の研鑽を積み、天保13(1842)年長崎に出て蘭方眼科を学んでいる。その後、一時郷里の郡中に帰っていたが、京都で開業している。元治元(1864)年には蘭医ボードウィンの建白によりに分析窮理所が設置されると、ボードウィンのもとで学んでいる。晩年は京都の女婿宗直哉の家に住み、眼科の診療を行うかたわら文墨を楽しみ、明治13(1880)年に72歳で没している。著書に『眼科秘笈』『眼科新説』『内翳書』などがある。

 「ねさめのよまい」は内題に「壬子」とあり、■と関係した人物の生没年から嘉永5(1852)年の成立とされている。■は最初に自分の読書するようになったきっかけとして、老父に筒井村にあった義農作兵衛の碑を見せに連れて行かれたが、読むことができなかったことをあげている。その碑とは享保の飢饉で種籾をのこして餓死した作兵衛を顕彰するため、松山藩が安永5(1776)年に建立した顕彰碑を指すが、それから■は良友とともに四書などを読むようになったと記している。そして、その時から30年余りが過ぎ、都会に出て見聞を積み、つたない医術であっても人に尊敬され、衣食の憂いもなくなったが、次第に時の流れに身を任せてしまい、聖賢の言もどこか他人事のように感じるようになってしまったと反省している。■が子どもの時に学んだ「作兵衛の志」。それは「誠に傷むべき良心」と表現されているが、この良心こそが■の医者として生きる指針となっていたことがうかがえる。

 この文章の後には、■が医学修行の中で各地の医者と語り合った談話、読んだ本などが思い出すままに記されている。語り合った医者として著名なところでは、京都の新宮涼庭(1787〜1854)、小石元瑞(1784〜1849)、幕府侍医桂川甫賢(1797〜1844)があげられるが、その他にも津山藩井岡道貞、肥前武雄の清水草庵、阿波の石川道仙などの名前が見える。それ以外にも人から聞いた噂話として、たくさんの当時の医者の名前を見出せる。■が京都・江戸・長崎と医術修行を行うなかで、貪欲にいろいろなことを学んでいた様子が「ねさめのよまい」から読み取れる。次回、面白かった点のいくつかをさらに紹介してみたい。

■だらけの文章になってしまったが、■は上に山で、下に松。『日本洋学人名辞典』では「しゅう」と読んでいる。伏せ字のようでいやなのだが、致し方ない。