「ごりょんさん」の日記

荒木康代 大阪船場おかみの才覚 を読了。

大阪船場 おかみの才覚 (平凡社新書)

大阪船場 おかみの才覚 (平凡社新書)

タイトルだけ見ると読みそうもない本だが、サブタイトルの−「ごりょんさん」の日記を読む−に惹かれて読んでみる。いろいろな人の日記を読むのが好きだが、とりわけ女性の日記は数少ないので興味津々。

ちなみに、「ごりょんさん」は、漢字で書くと「ご寮さん」の文字を当てる。商家の女主人を大阪で呼ぶ時には「ごりょんさん」となる。東京でいう「おかみさん」。近代化以前の商家は多くの店員が住み込みで、丁稚制度も遺っている。職住一致の商家の中で、奥の部屋にひっそりいる存在ではなく、若い店員に「家事雑用一切」を仕込み、「行儀作法」や「商家の家風」を教えるのが「ごりょんさん」の役割だったという。「指揮」し「命令」する人、それが大阪の「ごりょんさん」であった。

本書は、大阪市北区中之島に生まれ、船場の商家に嫁いだ杉村久子の日記をもとに記されている。杉村久子はもと薩摩藩士で、大阪商工会議所を創設するなど大阪の産業界の指導者ともなった五代友厚の四女で明治16(1883)年の生まれ。明治34(1901)年の17歳で、大阪市東区南久太郎町(現在の大阪市中央区久太郎町)の杉村正太郎と結婚している。久子が嫁いだ杉村家は代々大阪港区一帯の地主であり、幕末から大阪船場で両替商を営んできたが、明治以降には砂糖商、林業、貸家経営、倉庫業などを行っている。

杉村久子の日記は、昭和2(1927)年の43歳から昭和18(1943)年の60歳までのものが遺っている。筆者はそのうち昭和2年の日記に絞って紹介している。日記の見開きが写真掲載されているが、細かい文字でびっしりと記されている。日記に記されるのは、久子自身はもちろん、家族、店員、女中などの行動、手紙・贈答・来客・面会・相談などなど。「ごりょんさん」だけあって、一般の主婦の日記とは大分イメージが異なる。

日記からは久子の生活が浮かび上がる。起床は午前8時30分〜9時頃と少し遅め。時に11時起床の日も。掃除や料理は女中がいるのですることはない。随分暇そうに見えるかもしれないが、さにあらず。久子の生活で最も多くの時間を占めているのが、「裁ちもの」「つもり物」「しきしあて」などと記される仕立物関係。夫や息子などの家族分だけでなく、姑や義弟などの親族分、それから女中の着物まで準備するのだから、一日はそれはそれで忙しい。夜、新聞を読んだり(特に新聞小説が好き)、ラジオを聞いたり、日記をつけたりするのが久子のほっとする一時。就寝は日が代わってからということが多く、意外と質素で夜型生活であった。

2年前に杉村家は住まいを伊丹に構え、店と家が離れたため、若い店員に家事雑用を仕込む仕事は少し減っていたかもしれない。しかし、若い店員は店の仕事だけでなく、何かと家の用事を申し付けることも多いので、久子との接点は多い。そのうちの一人、吾助が結婚する時には、結婚衣装の準備に、給料3カ月分の結婚祝いに、夫の給与の値上げ交渉を裏でしたりと、何かと世話を焼いている。それは久子との接点が多い女中だと猶更である。もちろん女中が結婚退職する際には嫁入り道具を準備するし、退職後にも女中は杉村家を手伝いに訪れるし、久子も仕立物を元女中に頼むし、持ちつ持たれつの関係は続く。そうした関係を筆者は次のようにまとめている。

昭和二年の杉村家では、すでに店と家が離れ、久子と店員との関係はだんだんと希薄になっていたが、元女中との関係の濃密さはまだ残っていたということだろう。そして、このような女性たちとのネットワークが商家の生活を支えていたのだと言える。夏と冬の仕着せは、そんな久子と元女中のつながりを再確認するためのものだったのかもしれない。

久子の日記は、女中と女主人との関係性はよく分かるが、女中自体の仕事や暮らしはあまり見えてこない。久子の日記はやはり「ごりょんさん」の職務日記だからであろう。その点については、最近小泉和子女中のいた昭和が刊行されているので、合わせて読んでみたいところ。

女中がいた昭和 (らんぷの本)

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