『西遊旅譚』で深みにはまる

あることを調べていて、司馬江漢の『西遊旅譚』に当たることに。こういう時に現在、インターネットにたくさんのデジタルデータが公開されているので便利。とりあえず、国会図書館電子図書館で閲覧。 『西遊旅譚』巻之三に調べている箇所を簡単に発見。その箇所とは長崎のオランダ商館のカピタン部屋である。このカピタン部屋の場面、多くの本にも使われる有名な挿絵でもある。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2607411

あったあったとその挿絵に見入っていたら何か違和感。確かこの挿絵の下部には文字が記されていたような。あわてて、手元にあった1996年に町田市立国際版画美術館と神戸市立博物館で開催された「司馬江漢百科事展」の図録を取り出してみる。すると、同じ『西遊旅譚』であるが、こちらにはちゃんと下部に「和蘭カピタン居所/ビイドロ額人物山水/をゑがく障子ビイ/ドロにて張ナリ」と記されている。これ如何に。

国会図書館と図録の情報を突き合わせてみると、国会図書館は享和3(1803)年版とされているのに対して、図録は神戸市立博物館蔵で寛政6(1794)年 版。どうも刊行年代が違うらしい。そこでさらに、国文学研究資料館の日本古典籍総合目録をインターネットで検索してみる。そうすると、28件のうち、10件は享和3年版、1件は寛政6年版、1件は寛政2年版とある。享和3年版が圧倒的に多そうであるが、寛政6年版も秋田県図書館時雨庵に確認できる。ちなみに、寛政2年版とされる本、国会図書館の別のところに掲載されている本にあるので、実在するのだろうか。
http://www.ndl.go.jp/nichiran/data/T/123/index.html

インターネットで見ることができる「西遊旅譚」を調べてみる。最初に国会図書館に戻って巻末を確認すると、「享和三年癸亥八月発行/江戸書林/中橋南傳馬町壹町目/鴨伊兵衛梓」とある。九州大学総合研究博物館のギャラリーに紹介されている本は、刊行年代のないもので、巻末に「書肆/心斎橋通唐物町/河内屋太助」とある。この本にも、享和3年版と同様に「和蘭カピタン居所…」の文字はない。早稲田大学図書館の古典籍総合データベースでは3件の「西遊旅譚」がヒット。そのうち1件は写本なので除外。残りの2件はそれぞれ巻末の情報がまた違う。仮にA本、B本とすると、A本は「心斎橋通北久寶寺町 河内屋源七郎」 が板元で、他に須原屋茂兵衛(江戸日本橋南)ほか、尾張名古屋の売捌書店名がずらりと並ぶ。この本にも「和蘭カピタン居所…」の文字はない。B本はA本にも刷られている「春波楼蔵板目録」で終わり、板元などの情報がないもの。こちらには「和蘭カピタン居所…」の文字が入っている。

気づいてしまった「和蘭カピタン居所…」の文字の有無。別にほっといてもよいのだが、気になって調べ始めて深みにはまる感じ。最初寛政年間に刊行されたのはあまり流布せず、江戸の板元による享和3年刊のものはかなり流布、以後大坂を中心に後には全国レベルで何度も版を重ねていることは何となくわかるが。

ところで、先に取り上げた「司馬江漢百科事展」の図録は、「西遊旅譚」を次のように解説している。

5冊。寛政6年(1794)刊。天明8年(1788)から翌年寛政元年にかけての長崎旅行の様子をまとめ出版したもの。晩年に浄書された『江漢西游日記』にくらべ、文章は簡略なものにとどまっているが、挿絵の数ははるかに多く、その内容も万人の関心をひきやすいものになっている。
享和3年(1803)秋に書肆鴨伊兵衛より『画図西遊譚』が刊行されている。その内容は『西遊旅譚』とほぼ同様だが、「久能山之図」などが削除されている。これは幕府の禁に触れたために行われたもので、以前の『西遊旅譚』は絶版の憂き目にあったとも言われている。

なるほど、寛政6年刊が『西遊旅譚』で、享和3年刊が『画図西遊譚』という別の本と解釈した方がいいということであろうか。確かに国会図書館享和3年版、九州大学総合研究博物館、早稲田A本の題箋は『画図西遊譚』、一方早稲田B本の題箋は『西遊旅譚』となっている。でも、「久能山之図」が幕府の禁に触れて『西遊旅譚』は絶板というのはどうなのだろうか。カピタン居所の挿絵そのものは禁に触れずにそのまま掲載され、先の「和蘭カピタン居所…」の文字だけが問題視されて削られたとはあまり思えない。『西遊旅譚』から『画図西遊譚』へは何か別の事情もあるのではなかろうか。

司馬江漢は有名人。「西遊旅譚」の書誌的な研究もありそうなので、それを探すのが早いか。