『手前味噌』と『染太夫一代記』

赤坂治績 江戸歌舞伎役者の〈食乱〉日記 読了

江戸歌舞伎役者の“食乱”日記 (新潮新書)

江戸歌舞伎役者の“食乱”日記 (新潮新書)

作者の肩書きは演劇評論家、江戸文化研究家。自分の専門ということもあって、当初、名作歌舞伎に出てくる食べ物・飲み物を入口として、江戸時代の食生活について紹介する本を構想していたそうだが、幕末の名優、三代中村仲蔵の自伝『手前味噌』に出会い方針転換。「食乱」を自認した食いしん坊、仲蔵の自伝を通じて江戸の食文化に迫っている。

仲蔵は文化6(1809)年、江戸・住吉町(人形町)に生まれた。母親は舞踊・志賀山流の家元、父親は公事宿の手代。文化13年、5代中村伝九郎(のち12代勘三郎)に弟子入りし、文政元(1818)年、鶴蔵を名乗り初舞台。タテ(立廻り)の才能が認められ、所作事(舞踊)の評価も高かったが、仲蔵が生きた幕末には、興行資金が調達できなかったり、火事で劇場が焼失したり、芝居の強制移転があったりと多難で、江戸大芝居が興行できないことも多かった。そのため、大芝居の役者であった仲蔵も、全国各地を旅から旅へと渡り歩いているのである。

『手前味噌』は仲蔵の自伝であるが、仲蔵は自分の日記をもとに自伝を書いているので記述が細やかで具体的。食べることが大好きなので、食にまつわる記述が多いらしい。そこをうまく掬い取って、江戸の大スターにレポーターとなってもらい、様々な江戸グルメを紹介してもらおうというのが作者の趣向である。

目次をみると、蕎麦、鰻、すし、天ぷらなどのスタンダードな江戸料理から旅先での名物まで、幅広い食材を使った多彩な料理がずらりとならぶ。自分がちょっとおいしそうだなと思ったのは次のようなもの。

納豆汁〜大根などの野菜を煮込んだ後、叩き納豆と味噌を入れ、さらに葱も加えた味噌汁。古くは冷や汁であったが、江戸時代から温めた汁として定着(江戸)。

焼き竹の子〜筍をそのまま包丁で真っ二つ。味付けした玉子を筍の中に大量投入。筍を元の通りに合わせて荒縄でぐるぐる巻きにして、根元の囲炉裏の熱い灰の中に突っ込む。灰から取り出すと、皮をむいてポッポと湯気が立つのを小口から切って食べる(川越)。

おむすび〜丸亀に停泊中の船。白蔵という役者が自分でご飯を炊き、潮(海水)でおむすびをにぎってくれる。夜半からの激しい西風で揺れる船の中、仲蔵だけは元気におむすびをほおばる(丸亀)。

おいしそうと選んでみると、案外シブイものばかりになってしまう。でも、仲蔵は有名な江戸の大芝居役者、今でいうと大スター。その仲蔵に出される料理はやはりハレの食事が多かったのでは。江戸時代の地方に暮らす農民の食事とは大きくかけ離れているように思える。それでも、江戸のハイブローな料理文化はつかめえるには格好な史料といえるだろう。

ところで、中村仲蔵の一代記『手前味噌』は、江戸・明治物の出版社、青蛙房から刊行されている。その青蛙房から刊行されている本に『染太夫一代記』があるが、 こちらは浄瑠璃太夫、6代目竹本染太夫の自伝。染太夫も自分の日記をもとに記しているので、『手前味噌』に負けず劣らず面白い。この記録を軸に、実際の浄瑠璃太夫の目をとおして、江戸と大坂、地方の芝居など近世後期の浄瑠璃文化の様相を明らかにしたものとして、神田由築の江戸の浄瑠璃文化がある。

この染太夫も地方興行も含めていろいろなところを旅しており、一つ一つの旅が、滑稽なエピソードに彩られているが、中でも身分で入る湯を分かれていた道後温泉での侍と染太夫一行との会話は傑作。侍の計らいで、染太夫一行は、普段武士しか入れない一の湯にこっそりと入らせてもらっている。

また、『手前味噌』ほどではないが、『染太夫一代記』にも食に関わる記述が散見される。例えば、道後名物としては、「藤巻だんご、霞の昆布、露のあんころ」が記されている。また、郡中愛媛県伊予市)の商人小谷屋嘉兵衛に振る舞われた薩摩飯についても、染太夫は詳しく記している。

廿六日、当国の自慢には薩摩飯と五目飯、五もく寿司とありて、前日より約束をして、福島屋作助が料理にて当日小谷屋へ薩摩飯よばれに夫婦連れにて出けるが、さてこの薩摩飯といふは、鯛の骨ははう羅隅にかけてこまかく薬研でおろし、上味噌を味醂にてよく摺りまぜて、つくり身も焼き身もみな味噌に打ち込み、ねぎちんぴを薬味に加へ、白米のあつ飯を釜なりに持ち出し、その飯を器に盛り喰ふ事、実にまた類ひ無き風味なり。夫婦は勿論、弟子共までしたゝかによばれける。


郡中には当時、大洲藩の郡奉行の出張所、大洲藩新谷藩代官所といった行政機構が設置されていたほか、年貢米の貯蔵庫なども置かれ、港には西国各地からの船が寄港して大変に賑わっていた。そんな町場なので、福島屋作助のような腕の立つ料理人もいたのであろう。

太夫が記すところによると、薩摩飯には鯛を使うようで、鯛の骨は薬研を使って細かく砕いたようである。それから上味噌と味醂をよく摺りまぜて、刺身も焼いた身もその中に入れてねぎと陳皮(柚子やみかんの皮を乾燥させたもの)を薬味に加えて、あたたかいご飯の上に載せて食べる。染太夫はその味を絶賛、染太夫夫婦はもちろん、弟子までたらふく食べた様子が分かる。

薩摩飯は、郷土料理伊予サツマとして今に伝わるが、その内容は染太夫の記述とほとんど一致している。
http://www.gansui.jp/SHOP/satsuma_002.html
現在は、鯛以外も使われていることと、刺身は入れないことぐらいが違いであろうか。ただ、薩摩飯が客をもてなす特別な料理であったことはうかがえる。

青蛙房の刊行物は芸能だけでなく、江戸文化全般を知る上でもすばらしい史料といえるだろう。