挿絵画家と作家

中村嘉人 大衆の心に生きた昭和の画家たち (PHP新書) には、中里介山著の長編小説『大菩薩峠』のさし絵を描いた石井鶴三について、次のように記している。

石井は明治二十(一八八七)年、東京生まれ。東京美術学校彫刻科専科卒。彫刻や版画で旺盛な創作活動を続けるかたわら、さし絵も手がけた。
しかし、さし絵画家としての名声を決定的にしたのは、『大菩薩峠』のさし絵である。
彼はこれまでの浮世絵系のさし絵家の緻密で通俗的な表現をとらず、簡潔な描線で、原作の登場人物の風貌、性格や場面の情景、雰囲気を鋭くとらえ、さし絵に対する一般の認識を高めると同時に、さし絵史に一時代を画するきっかけを作った。


このように高く評価されている『大菩薩峠』のさし絵であるが、原作者の中里介山と鋭く対立していたことが、信州大学に寄贈された石井の遺品から明らかとなった。2月15日付の朝日新聞には次のように記されている。

介山から1925年に届いた手紙には、鶴三の挿絵展のことが書かれ、「画会の件アナタの方はトニカク私の方は大不賛成です」と、開催を反対していた。
鶴三が34年、『大菩薩峠』の挿絵集を出そうとすると、介山は出版中止を求める訴訟を起こした。「物語から着想を得た挿絵は小説の複製」と主張する介山に対し、鶴三は「画家に著作権がある」と反論。訴訟は示談になったが、実質的には鶴三勝訴の内容であった。

小説の付属物としての扱いから、挿絵が自立していく過程がうかがえる。