創刊号 道後今昔記1

花曇りの日曜の午前道後からだらだら坂を小登りに行き着いた祝谷に静かに余生を楽しむ町の故老三浦哲也氏を尋ねて木の香新しい南うけの暖い部屋で動き初めた春色を眺めながら道後の思い出を聞く。

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松山藩が道後に為した保護政策といふ様なものは有りませんな、元来今の道後ホテルの處が昔の殿様の御下屋敷の様に成つてゐて偶々殿様が入湯に滞在でもしられると御通り道には新しい菰を敷きつめ庶民の入浴を禁じたと云ふ位で町民は商売處か土下座ばかりしてゐたといふ位で迷惑至極の事であつたでせう、此のころや明治初年から現在を較べると全く隔世の感がありますよ、明治十年頃までは道後町の戸数僅かに土着の八十戸位で尤も今では此の八十戸も十五六戸に減じましたが其他は全部移住者です、大体明治初年土着の人道が移住者を歓迎したことは想像の外で第一家の世話から炭、薪、米、塩の資までも世話して迎へたもので其れで先づ今日を形成したのです、当時は現在の裏町者は皆田圃で只表通りだけが漸く八十戸か百戸の家で出来てゐたものです。


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現在の温泉場は明治二十五年位から着手して日清戦争…(中略)…新湯は今日の霊の湯の前身です、神の湯の内一の湯は士族湯と云つて旧士族以外の入浴を禁じ其の隣りの二の湯が女湯、三の湯が一般民衆用でした、女湯を士族湯の隣りにおいたのは間違ひの起つたとき女なればといふ用心の為めですよ、養生湯は昔は無料であつた、神の湯の当時の建物が現在の道後公園の風詠館で養生湯は平家建ての粗末なもので外から湯の中がよく見えました。風雨の日等は番傘をさして湯に入るといふ珍情景でしたね、後から出来た新湯は浴室が四ツ在つて各々上の方が拳が通る程の金網で仕切られ隣りの女湯がよく見えました、下は板で仕切りがしてありましたが若衆等はよく悪戯に此板仕切りを取はづし湯の中から女の手を握つたりしたものです、金網はつまり男女混浴禁止の申訳け位ですよ、乞食等は全部野天の牛馬湯に追ひ込むだものでして牛馬湯は当時現在の札売場の處に在りました、其の後それをズツと西の方に移転したのです
 此の当時湯治客が今より多かつたと思ひます、尤も交通が不便でしたから今の様に遠方の人は来なかつたけれ共備後、備中、安芸、周防、讃岐地方から旧の二月の彼岸から麦秋にかけて随分沢山来たもので鍋釜から諸式一切中には行燈まで持つて来てまた今日の如に専門の宿屋がないものだから半商半農の町家の間借りをして、多い家は三十人も四十人も雑居で自炊で二週間から三週間永井のは二三ケ月も滞在したものでそんな時には町中が人許りの様でした、今日の様に二日や三日の滞在客はなかつたものですよ、其の時分は物価が安くて天保銭一枚持つて来れば入浴が出来て名物の饂飩が鱈腹喰べられまだ甘酒やアンコロ餅に舌鼓を打つて剰銭が残る位でした。


 道後温泉の程近く、祝谷の故老からの聞き取り記録。昭和5年時の故老なので、幕末の生まれでしょうか、幕末から明治にかけての道後温泉の様子を活き活きと語っています。道後公園内の茶店、風詠館が、神の湯の昔の建物だったと語っていますが、これは全く知りませんでした。この情報が確かだとすると、その建物は江戸時代にまで遡ることになりますが、どうなのでしょうか。また、養生湯の建物は粗末で、外から湯の中がよく見えたとありますが、確かに江戸時代の道後温泉の絵図では、一の湯、二の湯、三の湯でも吹き抜けのように描かれており、養生湯も含めてかなり開放的な空間であったことは確かでしょう。
 後からできたという新湯は、明治11年に一の湯の東側に建築落成した上等浴室のことを指すものと思われます。風雨の日は番傘をさして湯に入った養生湯に比べると、まだましだったかもしれませんが、それでも浴室の上の方が拳が通るほど隙間の開いた金網になっていて、女湯がのぞけたというのも驚きです。下の仕切り板も外せて、湯の中から女性の手を握る悪戯ができたなんて、今なら犯罪行為。明治初期だとすると、江戸時代の混浴文化からまだ抜け出せていない状況を思い出しながら語ったのかもしれません。