謎の据物師、須藤五太夫

氏家幹人 大江戸死体考―人斬り浅右衛門の時代 (平凡社新書 (016)) 読了。
本の中に今治藩士須藤五太夫睦済という人物が登場する。

将軍家の刀の切れ味を試す「御様御用(おためしごよう)」
をつとめる据物師山田浅右衛門の高弟で、
山田家の代替わりの儀式にも深く関わっている。
山田家の四代山田吉寛(1738〜86)が、
晩年に病弱のため御用に差し支え時には、
須藤が幕府の許可を得て「手代」(代役)をつとめているので、
かなりの腕前だったのだろう。
その子どもと思われる梅之介も山田家の記録に登場する。
この須藤家がどのような家か探ろうとしたが、
今治藩士の由緒を記した『今治拾遺附録』をめくってみたが、
須藤姓は見つからなかった。


氏家氏は山田家の弟子として
川越藩の据物師長畑家を取り上げている。
長畑家は江戸常府で、下屋敷に住んでいた。
職名は御歩行(かち)。
天保4(1833)年の分限帳には、
15石4人扶持とあり、下級武士であった。
長畑家は師匠からもその技量を見込まれ、
その代わりに幕府の御様御用をつとめることもあったようで、
そのことを梃子に藩内での家格上昇を目論んでいる。
時代は天下太平の江戸後期。
川越藩では、
藩内の罪人に獄門の処罰が決まった時に、
過去しばらくそうした事例がなく首切り人がいないとして、
長畑家に全面的に頼む始末。
平和ボケした時代の風潮が見えてくる。


長畑の事例からしても、
今治藩士須藤家もかなり下級の武士であった可能性が高い。
嘉永4年の今治藩の分限帳には、
次小姓雇として2人扶持、部屋住須藤嘉五郎の名前が見えるが、
関係があるのかどうか。
据物師というアンダーグランドな闇の中で
須藤五太夫の姿はなかなか見えてこない。